041近くの答えより遠くの考え
コーチングという言葉をよく見聞きするようになったと思う。個人的にはそれほど大きなテーマではないが、ここ数年デザイン専門学校で教えるようになり考えざるをえないテーマになったことも無視できない状態にあると感じています。
インターネットの進化もそのコーチングが変わってきたことのひとつだと思う。自分から情報をつかまえに行く手段ができたので、得ることはできるようになった情報のみがあるからこそ、その情報を生かすためによりコーチングにスポットが当たるようになったのかもしれない。
著名な元バレーボールプレイヤーがある大会を組織したことを聴いた。それは監督・コーチは怒ってはいけない大会らしい。面白いし楽しい。怒る気持ちが全くわからないが、悲しいことに今だにあちこちに怒るコーチ(体育会の暴力事件なども)が後をたたない。世間では若者がインターネットのせいですぐ答えを求めるようになったとは言うが、こういった怒る指導者だって早く答えを求めているからこそ変に怒り出すんじゃないかと思ってしまう。
同じようなことに親が子どもに(ムリに)勉強を強いる姿も重なり合うように思う。
ぼくは幸運にも「勉強をしろ」と言われたことことも、言ったこともほとんどない。やる気のない人にいくら言い聞かせても本人の動機が弱ければ一時的には結果が出たとしても、きっと長続きはしないと思ってしまう。それよりはその動機をどうすれば発動させられるが重要だと思う。
それはスポーツだって幼少の時からカタにはめるようなコーチングではたぶん早期に結果は出るかもしれないが、その子が成長した時に頭打ちになっちゃうんじゃないかと思うし、そうなる人も多い気がする。
いい意味で真のコーチングとしての中身が語られるようになってきたことはいいことだと思う。ただし結果が出てしまうとプロセスは消されどんな手段であれ美談として中身が見えなくなることもありそうで注意が必要かと思うが。
ぼく自身、牧歌的に育ってしまったので人に何かを教えるにあたっては今日の答えを教えることは抵抗感を覚えるし、あまり面白くないと感じる。なので遠くの目標、考え方を提示するように心がけています。今日の答えを教えることで明日は生きていけるかもしれないが、仮に明日も同じように答えを教えることはできても、数日後、数年後は同じようには続かず、結局自分で答えを探さなければ生きていけくなると考えてます。
プレイヤーは短期的な結果を求めがちですが、客観的立場にあるコーチとしてはできるだけ遠くを見るようにしたほうがイイんじゃないかと感じています。