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なぜ疑似自然/人工自然に惹かれるのだろうか

ぼくはもともとビオトープとか……て、テラリウム?みたいな循環ある環境、エコシステム?的なものを見るのが好きでした。ヘッダ画像をお借りしています。


箱庭ゲーやキャンプとか

あとぶつ森とかelonaとかelinとかさくな姫とか……あと西村のキャンプとか(西村と言えば西村瑞樹以外にいない)、村田秀亮のキャンプばかり見るのはなぜだろうと自問していた。前者は単に箱庭ゲーであり、後者は人が実際に自然の中でなんかしているだけである。

でそれぞれの話題について書くので、後で見返しやすくするためにそれぞれを纏めてしまったわけです。

自分語りするのもなんなんだけど、このようなストック内にある文ではその中をアウトプット空間であると認識した上で、そのアウトプットから次の一歩目を踏み出したり、自己紹介をゲームで話すみたいなタグがこの世には存在しているっぽいのでそのようにさせていただいている。

このように上記リンクの1つ目はめっちゃ自由度の高いゲーム。特徴といえば普通のローグライクRPGであるとともに仲間と自分とかが育つと遺伝子が残せたり(同セーブ内では別に子供は生まれないのだが)、牧場で敵を繁殖させられたり、交渉というパワーが高い敵を拿捕するなりなんなりして店を持たせ、そこいらの洞窟(勝手に自然発生する)で拾ってきた武器を売りさばいて、税金とかに備えられる。このように擬似生活感がゲームの中にある。

2つ目のぶつ森なんて最たるものではないでしょうか。奇しくもコロナ下で求められたものはメタバースであった。

以下18行ぐらいは読む必要がありません。

「メタバが流行る」という機運が高まる以前に、つまりFacebook社がインスタでガキの承認欲求・ルッキズム至上主義を煽る行為をしていたことを内部告発でまんまとリークされ、社会に害をもたらす企業であるというレッテルを剥がすためだけに社名をメタだのいう「メタバースに注力するため」のものに変えるという振りだけして

(メタバースに注力するためになぜ社名を変える必要があるのだろう?「Facebookを運営している企業が運営しているメタバース」として連中のそれをプロダクトとして売り出さない理由とは、Facebookの成り立ちが「大学内の女の人の顔面偏差値を決めるサイト」だったから以外のどこにあるのだろう)、

社名を捨てるという情けない言い訳を始める以前に、とっくに世間の人々はぶつ森というメタバでそれぞれ楽しみを見出し、それぞれのメタバースを極めきっていたのだ。

だからFacebookは失敗したし、Threadでは意味不明にインスタのアカウントが必要とか検索できないとか謎のハードル上げした結果、「価値が落ちるところまで落ちきったTwitter」の顧客すら奪えなかったわけだがそれはマジでどうでもいい。

以上18行ぐらいは読む必要がありません。

さくな姫についても現代という満ち足りた場所からゲームを媒介として「よくわからん日本に似た異世界のとにかく食べ物に困った場所」に行き、命がけで米の作り方を学んで実践するという一連の体験がまさに箱庭=メタバースである。この場合のメタバースとは、他人とのやり取りを主目的とするよりは当時の日本っぽい住人たちとのコンタクトが擬似的に体験できるあたりにタイムスリップ系メタバース性を見いだしている(実際住人たちは個性がすぎるぐらいだ)。

特にぼくがnoteにアカウントを造ったきっかけとはぶつ森の記録を書くためでした。といっても

・今日この住人と仲良くなった、
・昨日は埴輪を集めまくるやーつで50個ぐらい行った、
・明日は魚を釣るイベントで5m越えを釣った、
・素性も知らぬLEVEL帯が近いだけのフレンドに凄まじい数の蝶を押し付けた(マジでそういうイベントがある。そして多分このゲームはずっっっっっと季節ごとにこの繰り返しなのだ)、

だの……ではない(と思う)。

ぶつ森ポケットキャンプで遊んでいると、任天堂がどのようにユーザをこの箱庭に「執着」させたいか、嫌な言い方だが「依存」させたいかを学んでいて(要は顧客の囲い込みですね)、ゲーム遊び自体が久々だったこともありそのようなマーケティング的成分すら何もかもが新鮮でアウトプットをただ楽しんでいた(そういう感覚についてももしかしたらこのゲームで養えたのかも知れないし、のちにそういう文も書けた)。

ついぞ課金したこともなかったが、さらには任天堂なんたらサービスに登録していつでもゲームを再開できるようにすらしないで終わってしまった(つまり再開ができない。しかしながらぼくにとってゲームの楽しさとは、別に当該オプションサービスへ登録したかどうかではない。それは単なる忠誠心でしかないのだから)が、とにかくはっきりと楽しかった。

それで興味がまたElonaに戻ったり、無限にさくな姫やキャンプのムービーを見たり、elinがリリースされたから遊んだり……と、このように箱庭とつかず離れず過ごしていたようだった。でもそれらに箱庭とか擬似自然みたいな共通項があることに(といいますか、ぼくがそれらに何が通底していると感じて好きなのか)気づかずにいた。次のことで気づけた。

ねね鈴桃→棚卸し

ぼくは以前からYouTuberの桃鈴ねねの趣味が面白いと思っていて、割と唯一無二感を覚えていた。そりゃ専門でテラリウムとかアクアリウムを見せるYouTuberはいるだろうけど、この人はそういう専門じゃない上にぼくは水性系専門の方々をこれまで特化して見ていなかったので珍しいと思った。



メインの趣味は甲虫だけど家の中にビオトープを作っていてすごかった。

唯一無二だと思うのはこういうアプローチができる部分にもある。

探せばいるんだろうけど、大小動物に抵抗がないどころか好きなYouTuberのアイドル、かつ単独でテレビ慣れしている人(仮想存在)を他にカルロピノぐらいしか知らないので、この二人あたりでMusic Verse TVみたいにEテレあたりで昆虫系TVの後釜が狙えるんじゃないかと思っていたほどだった。

そして別の機会に、また違うチャンネルのゲストとして来た。奇しくもMusic Verseのレギュラータレントのチャンネルですね。マジでたまたまです

ここで自己の趣味について話していて、リスナーから「今は何体ほどの命がご自宅にいるので?」という質問に答えた。

今は冬季なので甲虫の子供が30以上、かえるが5~ぐらいいると話していて、いま挙げたTwitterリンクについてや、このページの冒頭で述べた「なぜぼくもこうした箱庭的生き様に憧れるんだろう?」ということを視聴者としてのぼくは思い出した。

もちろんこれまでも定例配信やメンバーシップなんかで話していたかも知れないけど、ぼくは「必ずこの人の配信を全部見る、と決めている相手」はひとりもいないのでそれを把握するのはかなわなかった。

そこでこの配信中に、「庭でかえるテラリウム」という単語で色々と調べていると、やはり上記で少し触れたような専門的に水生生物の飼い様を単発ムービーにしてアップロードしている人々を見かけることとなった。

ぼくは外来語以外の名詞を片仮名で書くことにものすごい抵抗がある(自分でもなぜだかマジでわからない)ので、上記の検索語とは「蛙のテラリウム」を見る目的で使ったのでした。だってそれまでねね鈴桃の話を聞いていたから。

確かにいろんな方法で蛙を住まわせる方法がそこにはあったし、満足した。爬虫類とこうしたミニテラリウムとの親和性が異常に高いことがわかった。いもりとかやもりとかかなへびですね。

そこで思ったんだけど、もちろん!と声を大にして言いたいんだが……さらに、そういう人々を何らけなしたり傷つけたりしたいわけではないのですが、斯様なビオトープ的なものって、市販の水槽とかをいかにきれいに見せるか、みたいなところに注力しているわけです。そりゃ予算もスペース的な問題もあるし仕方ない!と思う。

でも生物にとってのそれとなるとどうでしょう?せめて2LDKの家の一部屋程度の面積、および空間すべてを使った状態じゃないとわざわざ野生の状態からそこに連れてくる意味が多少失われてしまわないか?と。

また同時に、これは生き物の尊厳的にぼくにとって重要なことなんだけど───いま言ったような生き物をわざわざ「連れてくる」という概念を忘れて欲しくはないわけです。そりゃ生き物は意識なく感情なく生きてるんだろうけど、自然の中にいらっしゃる姿が一番自然なんじゃなかろうかと……

なので、あくまで自己の娯楽としてそのようなビオトープとかは造られるわけです。アクアリウムなんてその最たるものですよね。上記と同じように「数cmが人生の限界」となってしまう場所に押し込められて、人々を楽しませるだけの余生を送ることになる。

その娯楽を否定はしないのだが、そこで「こんな素敵な家で暮らせるようになってよかったね」的な、自分が一方的に揃えた環境に生き物を住ませてやるみたいな意識を持ったYouTuberとかは紹介したくもないし、そのような気配を感じた瞬間に視聴を即中断するだろうと。

先の単語で検索すると、上位だけでもものすごい有意義な内容が出てきた。サンプルとして3つぐらい貼るけど、

どれも良かった。

こういうのってガチでなにもないところから100均とかホームセンターで材料を集め終わった時点あたりから始めるから、前半(どころか大体のこともあるけど)にがっつりDIY部分が入る。生き物のいの字も出てこない。

いわゆるそれを「なんたらだけど○○作ってみた件について!w」的に楽しめるひとはいいだろう。揶揄してしまってなんだが、ぼくもそこまで飛ばさないで(音を消して2倍速ぐらいにはするかもですが)生き物が出ない部分も見る。何より真似したい人が参考にする用途もあるでしょうね。

だけどやっぱり水槽の大きさを脱していない。いや、全然そのとおりなんです。おっしゃるとおりです。ここまでいくと充分芸術だと思う。でもやっぱ六畳一間ぐらいの、動物にとってのインテリア性を……と思ってたらアッタアアアアアアアアアアという感じの人を見つけた。

奇しくも二番目の人だった。もともとおそらく地方に大きな敷地をお持ちで(おおすすずめばちを駆除せずに去るのを待ったり鹿にあったり野菜を取ってきてその場で料理して食ったりする)、敷地の一角がまるまる水生生物の小屋になっている。

六畳一間どころか、2LDKどころか、もはや建物ひとつをビオトープ化しようという印象を受けた。この人の恐ろしいところはとても一人では運びづらいような流木を調達するどころか、コンテナぐらい大きい「苔用の小屋」みたいなのをよっつぐらい建設しているところにある……じゃないとこの小屋じゅうを苔でコーティングできないのだ。

で別にこの人はそういうことをしてないけど、先に挙げた「住ませてやってる感」につながるのかつながらないのか……といったところですが、今ビオトープとは言いましたが完全に自動的なエコシステムがサイクル化するわけじゃなさそうなんですよね。「食べ物の給餌をする必要がある部分」がある程度ある。

給餌についてを込みで疑似ビオトープの楽しみとするのは全然ありだと思うけど、ここで「こんないいもの食えて幸せだね」とかテロップが入るようなタイプのがあったら終わりだろうな、とは思う。嬉しいことに未だそういうムービーに出会ったことがなくてよかったと思う(すでにそういうのを知っていて、そういうのを暗にけなしているとかではない)。

この人について言えば……甲虫を放出する際に、わざと戦いが始まりそうな置き方をしてるように見えてしまったところが心残りでしょうか……でもそんなのぼくが穿った見方しかできないからなんでしょうけどね!

外形を創る=箱庭に新たな生命を住まわせる

このような「外形を創る」系の生き様を見てきて急に思い出したものがあり、それがシムシティでした。

シムシティ序盤はとにかく外形を創る。誰も住んでいない家、企業、工場を建てまくる。先程これ系のムービーでは冒頭にDIYが差し込まれると言いましたが、それがまさにシムシティの外郭だけ創るやーつなわけです。

この上に挙げた人ですが、ガチでなにもない、しかくしめんな場所に発泡スチロールをはめていったり、100均によくある防虫幕みたいのをかぶせていったり、建物の隙間を全部埋めたり……「人口自然」を創るための余念がない。

特に発泡を積み上げ、直角できれいな高さのそれが積み上がったなと思ったらバーナー?で片っ端から焼きながらくり抜き始め、「岩壁」を人工したあたりは驚愕した顔で見てしまった。いかにも「箱庭大自然」に見えるその裏側がここまで徹底して効率的な人工物で造られているとわかったとしても、逆にそこまでできんのすごくね?と思えるわけです。単純にその応用力の高さに感心してしまった。

そのくり抜かれてでこぼこになった岩壁には、コーキング剤を塗りまくる。そして買ってきた砂利かなんかを塗っていくと、マジで岩壁ができるんです……理論的にそりゃそうだろとか思う人はいるのかも知れないが、完成形を見たときにはここまで完全に自然が再現されていると錯覚するものの、それを一枚剥がせば発泡スチロールがあり、木材があり……と見事にDIY部分を見ていたことに意味がある内容となっている。

このように仕上げた「擬似自然」で何らかの生命が生きていることにはなんだか意味のわからない喜びがあるような気がする。いや、歓びというべきなのか……

まんまとこちらの思い通りに(もちろんぼくはこのアップロード者に完全に感情移入しているのだろう)、人工川で泳ぎ、川の終点までたどり着いtら例の岩壁を登るやもりを見ていると、そうだ、それをしてほしくてこのビオトープは存在するのだ、という気分になる。このようにしてぼくは「擬似自然」というカテゴリにたどり着き、それに惹かれるんだ、とわかり、なんとなくこのように命名した次第でした。

でこれがシムシティと同じだというのは先も言ったとおりだが、Elonaでもそうであり、やはり「店」「牧場」みたいな外形を買ってきて、自分が出稼ぎみたいに調達してきた武器を置いていって、交渉LEVELが高くなる武器を次々店員に着せてやり、自分はまた何かしらの旅に出て戻ると大量に武器が売れているみたいな現象がそうですね。牧場なら、留守にした間にものすごい数の鶏になっている、など。

さくな姫も、自分が施した措置が果たして米にとってよかったのかどうかみたいな効果測定により価値判断の基準がいい感じに狭まり、正解がわかるようになり、キャラクタたちが楽しく生活できるようになる。

このように「自分がいなくても何かしらの生命体が(ゲームの場合は疑似生命体が)勝手にその自分が与えたプラットフォームで生きていてくれる感」がいま挙げたそれぞれに共通していると思ったのでした。そして、なんだか知らないがぼくはそれが異様に好きだ。そのようにプログラムしたのはゲームの構造を利用した自分かも知れないのだが、ある程度彼女ら/彼らが好き勝手生きていてくれる様を見るのが。

あとキャンプとは、ある場所にどーんと置いてある「自然」の一部を切り取って(別にそんなの本来切り取れないし、切り取ったとこっちが勝手に思っているだけだけど)その中で何かしらの自分なりの個性的な「生活」をするあたりに箱庭感があるのだった。

これらすべてが箱庭───疑似自然、人工自然という共通項で楽しめていたことになんとなく気づいていなかった。だが今回のこれそれで気づけた。自然とはあまりにも大きすぎて、こんな矮小な生物(もちろんぼくらのことだ)にとってはその一部を切り取らないとなにがどうなっていて面白く素晴らしいのかが理解できないのか。

だから人工的にレベルを下げるという「トリミング」的行為をすると(言うまでもなく信じられないぐらい大変だけど)このようにいろいろな物が見えてくる───のかも知れない。

最終的にこの小屋には先のタレントが好きな甲虫まで住み始める。なんといえば良いのか、贅沢な見世物小屋の完成形のようなものではないだろうか。

もっとも同じ生き物をして、「閲覧的に」楽しんでいる時点でぼくこそ信じられないほどの上から目線野郎でしかないのかも知れないけど。

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中村風景
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