恋する十二単とタンクトップ姿の夏の匂い
射手座のぼくらは果たしてルイ・アームストロングの加護を受けているのだろうか?騎士団長殺しを読みかえしていて色々なことに気づく。ヘッダ画像をお借りしています。
とうとうぼくは下巻に帰ってきた。上巻と下巻あり、よくわからん別れ方をしている。2巻とか上中下とか呼ぶのは嫌いなんだろうか?一部二部となっているのは、果たしていつかすました顔で続きを書いても違和感なくするためだろうか?それはそれで歓迎なのだが……
下巻を読み始めたのが1年と2ヶ月ぐらい前だと考えると、ちょっとそんなに時間て経つものです!?!と思ってしまう。
そして、秋川まりえのイメージががうるぐらに、その親父である免色のイメージがある嫌いなYouTuberに固定されてしまったと同時期に言ったが、それもキープされ続けており恐ろしい限りです。
しかしながら後者についてはある程度イメージを払拭できたといいますか、その嫌いさんとぼくなりの免色のイメージが重なり、独自の免色像となって現れた感じになったんちゃうかという気がしている。
思えば主役以外は意識できてる気がする。雨田政彦はあの~~~~~~~~~Lucyの悪役の男がまさにぴったりである。
で騎士団長殺しを書いた雨田政彦の親父は耄碌しちまってるけど、チェ・ミンシクを白髪にすればよろしい。なんで雨田政彦がこの人なんだろう?同時期に見ちゃったのかな。めっちゃ日本人にしか見えないし
奇しくもぼくは山極寿一の理論に端を発し時間について考えてたことがありました。
騎士団長殺しの下巻には、これと対になるつまり人間本位の考え方が載っていてなるほどと思う。つまり
そしてこの理論は主人公がやってんのと同じ絵の世界に飛ぶわけですね。極めて応用的に。
なんてこった。時間を固めている。時間を標本にしている……
絵とは娯楽的意味を込めて過去の事実を固定していることを意味しますね。となると─────娯楽と情緒的価値と、効率的価値としての時間の扱いをぼくらはどうすればいいのか。絵は過去の事実を固定してしまっているが、それは時間の効率化なのか。
いや、絵なんて別に誰も頼んでないのに書くものだから情緒的価値があるのか─────この議論に終わりはない気がする。騎士団長殺しにはこのゴッホの絵の彼がいつまで経っても著名であることについては集合的記憶のためとされているが、集合的記憶とはたまにペインとなって襲いかかってくることもまた事実ではなかろうか。つまりデジタルタトゥの原型みたいなものである。
となると迫害をエンターテインメントとして消費するような愚かしい行動があったとしてそれは情緒的価値などと称してはならないだろうし、当人たちにとっては情緒的なそれなんだろうが全くもってはなはだしくそれは間違いであり、効率的に人を迫害する効率的時間消費だと位置づけられるのだ。
そうじゃなく、誰も傷つけない本来的意味での(体制に逆らうという意味合いにおいてはその対象を傷つけるために絵で表現することもあるだろうが)公の利益のための絵のようなものであれば情緒的価値があるといえるのでしょうか。そもそも山極寿一に言わせれば、絵画とは情緒そのものであると理解してよいのかもしれない。そもそもこの騎士団長殺しというフィクションの物語自体が創作としての時間がこの本の中にいつまでも固定されているわけであり……
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