唯識の思想(2016/3/11)/横山紘一【読書ノート】
数多くの人々が葬式や法事、初詣でお寺を訪れるシーンは日常の一部である。私たちは、その静寂な空間でお経の音色に耳を傾け、仏像に向かって手を合わせる。しかし、その一連の行動の背後にある仏教の深遠な教えや考え方に、真に触れて理解している人は、意外にも少ないのではないだろうか。
この本には、大乗仏教の一角、唯識派の世界が描かれている。読み進めると、「色即是空」という瞑想的な言葉や「菩薩」、「如来」という用語の意味が、日常生活とどのように関連しているのかが鮮明になる。
唯識とは、全ての存在が私たちの心から生まれるという視点を持つ思想である。この考え方は、近代の西洋哲学にも類似点が見られるが、インドの古代哲学では長い間中心テーマとして議論されてきた。そして、西洋の観念論が世界の真実を知るための手法として存在するのに対し、唯識思想は人生の「苦」を超えていくための実践的な方法として存在している。
現代は未来への不安や孤独感が漂う時代である。だが、仏教の教えを理解し、それを日常生活に実践的に取り入れることで、心の中に溜まった重荷を解放し、もっと軽やかな人生を歩める可能性が広がっている。この本は、そのための一助となることだろう。
私たちは、池の表面に映る景色や生き物、波紋として「自分」や「もの」と認識している。しかし、それは池の本質ではなく、ただの映し絵に過ぎない。この認識こそが、唯識思想の核心である。
私たちが「自分」や「もの」と見なしているものは、実は心の動きや反射に過ぎない。真実は、これらの存在そのものではなく、心の中の動きにあるのだ。
では、私たちが執着するもの、例えば他者との対立やお金、地位への渇望は何なのだろうか。それは池の水面に映る波紋や泡、ゆらめきのようなもの。これらの執着から手を引くことで、心の池が静かになり、真の解放を手に入れることができるだ。
そして、その心の池の深層に存在するのが阿頼耶識。これは私たちの行動や思考、感情の根源とも言える存在。善い行為を積むことで、この阿頼耶識は清浄になり、逆に悪行を重ねるとその水は濁ってしう。
阿頼耶識が濁ると、私たちの世界も曇り、暗くなってしまう。しかし、善行を積むことで、池の水は再び透明になり、私たち自身の生活も明るく、澄んでくるのだ。
唯識思想の視点
私たちの心の中だけが実際に存在する。
「私」という概念は、釈尊が提唱した仏教の核心で、実際には存在しない「無我」を示すものだ。考えてみて、あなたの手を指摘されたら、それは「自分の手」と感じるだろう。しかし、「自分」というものは本当に存在するのか?その質問には明確な答えを見つけるのは困難である。真実は、私たちが「自分」と名付けているものは、実際にはただの身体や心の反応に過ぎないということだ。仏教の理解は、この認識から始まる。
全てが心から生まれ、心の中にしか存在しないとするのが「唯識」の考え方だ。すなわち、私たちが感じる全てのものや現象は、心の中で認識されて初めて実在となる。
一人一宇宙の考え方
私たちが住んでいる宇宙は共有されていると感じているかもしれない。しかし、それは人間同士が共有する言葉の中のみの存在だ。目を覚ますたびに、私たちの個人的な宇宙が新たに形成される。この考えを〈人人唯識〉と呼ぶ。言い換えれば、私たちの中には一つの共有された宇宙は存在せず、各個人の心の中にだけ存在する。
感覚、感情、言葉
私たちの「感覚」が捉えたものは、「感情」を通して解釈され、「言葉」として表現される。世界は本来無色であるが、私たちの感情や言葉によって色付けされる。
執着の放棄
私たちの生活には多くの苦しみが伴う。この苦しみは「自分」や「物」への執着から生まれる。しかし、「唯識」の考え方によれば、「自分」という概念や外の「物」は実際には存在しない。確かに、物や事象に対する認識は私たちにとっての理解を助けるが、それらに過度に執着することが問題なのだ。
自己中心的な考えや欲望は、私たちの心を乱す。この執着を捨て、事物を客観的に見ることで、全ては相互関係にあるという真実に気づくことができる。
心の奥深くを探る
唯識派の心の構造
唯識派は心を以下のように区分している。
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識
意識
末那識
阿頼耶識
1は対象を直接感じる感覚領域、2は対象を概念化する領域、3は自我への強い執着を示す部分を示し、阿頼耶識は生命と自然を生成・維持する基礎的な心。深層の末那識や阿頼耶識は、唯識派の者たちが瞑想を通じて発見したものだ。
「唯識」とは、心だけが存在するという思考の立場。しかし、欧州の観念論とは異なり、この考えは他者と自分の救済を目的としている。この理論の究極の目的は、「空」に達することで、ここでの「空」は物質的な存在を超越した状態を指す。
末那識との持続的な執着
「自分」という考えから逃れられないのは、深層の「末那識」の影響だとされる。仏教は欲望が他者を苦しむ原因となるとき、それを否定するが、末那識は生きるための基本的な欲求であり、必ずしも良いわけではないとは言えない。
阿頼耶識: 万物の根源
阿頼耶識は万物の原因として唯識派により説明される。この識は、私たちの行動や感情のエネルギーを貯蔵する場とされる。このエネルギーは、善行で清められ、悪行で苦しむ結果をもたらす。
唯識の思想を日常に取り入れる
阿頼耶識を浄化するヨーガ
ヨーガは心と身体を統一する方法とされ、真理との結びつきを追求する。日常の中で感謝や慈悲を持つことで、心は浄化される。
日常の行動と心の浄化
日常の中で他人との対立を超え、感謝の心を持つことで、心は浄化される。そして、自分や他者を支える存在への感謝の心をもち続けることで、心はさらに浄化される。
唯識とは何か? - 大乗仏教の認識論の基本原理
唯識とは
唯識は大乗仏教の一派で、個人の認識に基づいて存在を説明する認識論の見解です。唯識の中心概念は、あらゆる存在が個人の認識によって構成され、それを8つの要素で説明することです。
八つの要素
これらの8つの要素は、5つの感覚意識と、それらの無意識の働きによって成り立っています。これらの要素は個人の認識行為全体を包括し、意識状態同士が相互に影響し合います。したがって、これらの存在は主観的であり、客観的ではありません。
唯識と空の思想
唯識は、大乗仏教の空の思想に基づいています。しかし、唯識と西洋の唯心論は異なります。唯識では、心の存在自体も仮のものであり、最終的には心的な働きも否定されます。これに対して、西洋の唯心論では心の存在が重要視されます。
感覚と趣旨
唯識は感覚と趣旨の概念を強調します。個人は自分の阿頼耶識によって作られた世界を認識し、他人と共通の客観的な世界を感じることができます。個人の行動や思考は、趣旨と呼ばれるものに記録され、阿頼耶識として知識の種子とも呼ばれる場所に保存されます。
阿頼耶識と種子
趣旨は阿頼耶識で相互に影響し、新たな種子を生み出す可能性があります。また、趣旨は外界の減少からも影響を受け、意識を通じて阿頼耶識に入ります。このプロセスは外界認識を示します。阿頼耶識縁起と呼ばれるこのサイクルは瞬時に消滅し、過去に遡ると終了します。
唯識は大乗仏教の重要な認識論の一部であり、個人の認識に基づいて存在を説明します。これは他の認識論や西洋の唯心論と異なり、無意識の領域を強調し、個人の認識行為を解釈します。唯識は、仏教の基本的な教義として、多くの文化で学ばれ、研究されています。