司馬遼太郎は自著を経営者のバイブルとして扱われることを嫌った【セイスケくんのエッセイ】
経営者やビジネスマンが私の書いたものを朝礼の訓示に安直に使うような読み方をされるのはまことに辛い
司馬遼太郎は、歴史小説の巨匠であり、その作品は日本の歴史や文化を鮮やかに描き出している。しかし、彼は、嘆きの言葉を漏らしていた。
「経営者やビジネスマンが私の書いたものを朝礼の訓示に安直に使うような読み方をされるのはまことに辛い」と。
司馬遼太郎の小説は、ただの成功哲学やビジネスマニュアルのために書かれたものではない。彼の作品は、深い歴史的洞察や人間ドラマを通じて、過去の出来事や人物の複雑な背景を理解し、そこから学ぶためのものである。司馬遼太郎が本当に伝えたかったのは、歴史から学ぶ知恵や洞察であり、それを現代の問題解決や経営のための単なるスローガンに変えることではなかった。
彼の作品をビジネスの場で引用すること自体が悪いわけではない。しかし、それが作品の本質を見失わせるような使い方になると、司馬遼太郎が嘆くのも無理はない。彼の作品を通じて伝えられるメッセージや洞察を、表面的にしか捉えないことは、彼の意図に反する行為だ。歴史は、教訓を引き出すだけでなく、過去の人々の生き方や思考を理解する手がかりでもある。その奥深さを味わい、そこから得られる真の知恵を引き出すことが大切なのだ。
例えば、坂本龍馬や織田信長のような人物が登場する司馬遼太郎の作品は、ただの英雄譚ではない。彼らの葛藤や失敗、成功の背後にある複雑な背景を理解することで、現代に生きる我々が学べるものは多い。しかし、それを単純な成功物語として扱うことは、彼の文学作品としての深さを損なうことになる。
司馬遼太郎の嘆きは、作品を深く理解し、そこから得られる洞察を正しく活用してほしいという願いの表れである。彼の作品に込められた歴史の教訓を、ただの訓示としてではなく、真に理解し、日々の生活や仕事に生かすことで、初めてその価値が発揮されるのではないだろうか。
司馬遼太郎について、「日本文学」という意識はあまりなく、楽しい歴史の勉強というイメージが強い。そこで、広井護さんに意見や反論を聞いてみたいと思う。
私も中高時代から司馬遼太郎が好きで、たくさん読んでいた。同じように、彼の作品からいろいろな人生訓を学び、自分の生活に生かそうとして読んでいた。
ビジネスマンには特に人気があり、ビジネスマン向けの雑誌ではしばしば司馬遼太郎の特集が組まれる。また、経営者や政治家にもファンが多い。しかし、司馬遼太郎自身はそういう読み方をされることに不満を抱いていたようだ。以下に引用文を示す。
「経営者やビジネスマンが私の書いたものを朝礼の訓示に安直に使うような読み方をされるのはまことに辛い」と司馬は語っている。
私自身も大学時代に、雑誌に載っている司馬遼太郎のエッセイで、彼が「本を読んで経営に生かしてます」と言われたときに寂しい思いをしたという趣旨の言葉を読んだことがある。それを読んで驚いた。司馬遼太郎はそのようなつもりで書いていたのではなかったと気づいた。
司馬遼太郎の小説を読むと、組織経営や組織管理について学ぶ教科書のように感じることがある。20年が経ち、私が国語の教師になって授業に悩んでいたとき、入試問題に司馬遼太郎の作品が出た。珍しいことだが、時々出題される。その際、「竜馬が行く」の一部を授業で取り上げ、深層読みをした。そこで初めて、彼の作品が深い表現で構成された文学作品であることに気づいた。
司馬遼太郎が寂しい思いをしたのは、彼の作品が文学として読まれていないことに対する不満だったのではないかと考える。今もなお、彼の作品は文学としてではなく、歴史書やビジネス書のように読まれていることが多い。森鴎外や夏目漱石、ドストエフスキーやトルストイに匹敵する文学としては読まれていない。
授業で取り上げたシーンは、竜馬が西郷隆盛に会いに行く場面。西郷を待っている間に鈴虫が鳴いており、竜馬は鈴虫を捕まえる。この場面では語り手の目線が15回も変わる。最初は西郷の目線から始まり、次に竜馬の目線、さらに吉井幸輔の目線と次々に変わっていく。これにより、場面が生き生きとし、キャラクターが立ち上がってくる。この言葉の魔術は、まさに文学だと感じた。
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