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雪国に眠る人

母のお墓参りに来ました。
今日は母の命日です。

父と弟の運転する車で3人。
父の故郷、寒い日本海の近くの町です。
生まれて高校を卒業するまで
父が暮らしたところ、
祖父や曽祖父などの眠るお墓に
母も入りました。

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母は東京生まれの東京育ちだったので
家族姉妹みな都内のお寺に眠っています。
あれだけ仲の良かった四姉妹も
今は3番目の叔母だけが残るのみ。
叔母も都内に住んでいるので
きっと近くに将来は入るはずです。

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話が逸れました。
父はすっかり脚が弱くなり
またお寺の住職さまが小学校の同級生なので
2人ですっかり耳が遠くなったので
大声で昔話しを楽しそうにしています。
私は弟と母に備える
お花やお菓子などの準備をしました。
母はもともと食べることが大好きで
昔から私たちに美味しい物を
たくさん食べさせてくれました。

入院し始めは岡埜栄泉の豆大福が
好物だったので持って行きましたが、
一口食べただけで
もう残してしまっていました。

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他にも、小川軒のレーズンウィッチ

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しかし後半
嚥下障害に苦しみ
どんどん食べられるものが減り、
お見舞いにはいつもコーラか
ガリガリくんのアイスを
リクエストされました。

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それも2口くらいで
『もう十分、ありがとう』と笑います。
まだ少し元気だった頃も
『何か食べたいものある?』と聞きますと
『カッパ巻きを1本』と言う答え。
お店で1本だけ買うのは
なんとなく難しいので
他にも幾つか選ぼうと…
母は本当はマグロが大好きなので
鉄火巻きも買いました。
でも本当に母はカッパ巻きだけを
それも二口だけしか
食べられなかったのでした。

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母と最後に話しをした日を
今でもハッキリと覚えています。
食欲が全くなくなり
どんどん痩せていく母に
病院側がアイスクリームを
出してくれるようになりました。
しかし、それにも手を付けず
もう体力も限界まできていました。
お見舞いの時
いつも母は私が来て15分くらいで
『もう帰りなさい』と言います。
私もやつれた母を見るのが辛いのと
もしかして母が居て欲しくないのか?
と素直に従っていました。
それは私への気遣いだったとも気づかずに…
それを1か月ほど続けました。

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しかし
その日はなんとなくまだ居たいと思ったのです。
後から弟も来て2人で母を見舞っていました。
お昼ご飯のアイスクリームも手を付けなかった母に
受付で病院のスタッフさんが
私と弟に『夜もアイスクリーム出してもいいですか?
召し上がってないみたいなので』
と囁きました。
病室に戻り私たちは母と話しをしました。
ちょうどその前の日に
娘がやっと(遅すぎ!!)
【台湾旅行】のアルバムを作った
といって持ってきたので
それを見せました。
母は笑って眺めていました。
そして夕食の時間になり
アイスクリームが運ばれてきました。

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私は母に
『お母さん、アイス食べて元気になろう!!
○○(娘)も「また一緒に旅行に連れてって」
って言ってたよ?』

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すると母は急に瞳を大きく開いて
『分かった、お姉ちゃんも、頑張ってね』
と言って硬く私の手を握りしめたのです。
もう殆ど残っていない
最後の力を込めたようでした。
それが私と母の交わした最後の会話でした。
次の日
意識朦朧としたまま
1度も目を開けずに母は逝ってしまいました。

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そして今日
普段から身だしなみには
とても厳しかった母に会うのですから
キチンとお化粧をしました。
実は、昨夜、弟の長女が高熱を出し
『まさか、コロナ⁉️』
とざわつきました。
私も弟も、そしてきっと父もでしょう
母に祈りました。
母の「家族は絶対に守る」
という強い愛に守られて
《陰性》だったという連絡がありました。

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私も母みたいに
家族を守ることの出来るようになりたいと
今日は笑顔でお参り出来ました。

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これはお供えしたお花です💐。
母の日には来られないので
カーネーションも入れてもらいました。
綺麗なものが大好きな
母はきっと喜んでくれると思います。

実は、前泊した日に
とりあえずお墓参りをした時
私はお墓の前でやっぱり号泣してしまいました。
弟に諭されてやっと泣き止みました。
明日は笑顔で来るからね?と約束して…。
そしてちゃんと笑顔で挨拶してきました。

今日もお読みいただき
ありがとうございました。

(文中の🌸や⭐️、🕊などの絵は
ちよむらんさんからいただきました。
ちょむらんさんいつもありがとうございますm(_ _)m。)

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