疎簾風聞
2017年 8月 最初の手術で左肩と上腕(移植した腓骨)をつなげたワイヤーは、手術後半年で切れていることがわかっていました。 主治医は「そのうち取り除こう」ということでしたが、わたしがためらっていたために延び延びになっていました。 ワイヤーの端が筋肉に刺さるのか、ごくたまに痛みますが、それほど気にせずにそのままにしてきました。 6月のある日、デイパックに重い荷物を入れて担ぐことがありました。 帰宅後、シャツの左肩の部分に血が滲んでいるのに気づきました。皮下で内出血
12月3日 昨日、放射線科のMountain(仮名)先生の診察を受けました。その2日前に撮ったCTを見ながらラジオ波焼灼法の見通しの説明を受けました。 今回の治療のターゲットは左下葉の1㎝ぐらいの腫瘍です。10月の手術前の画像と比べて、位置も変わっていないし、大きくもなっていないということでした。 付随的なことですが、10月の手術で採れたかどうかわかっていなかった右上葉の小さな腫瘍は見当たらず、「採れたみたい」ということでした。ターゲットは左肺の1つということになりま
11月1日 肝胆膵内科で朝1番に診察してもらいました。 血液検査のデータに基づく肝機能の説明でした。手術前に異状も見えなかったし、最近になって急に回復していることからも、麻酔剤が影響していたのではないかということでした。ただし、血液検査のデータがすべて出揃っていないこともあり、退院後しばらくようすを見ながら2週間後に再検査と再診察を受けることになりました。 付随的に受けた説明では、一般的に検査されるγGTでは基準値内にあるように見えても、もう少し詳細なIgAという項目で
10月24日 昨夜は痛みでよく眠れませんでした。 昨夜の前半は横になると痛む部位があり、この状態のままでは眠れないと起き上がり、ベッドの端に座ると痛みませんでした。 もうこのまま起きていようかと思いました。 痛む場所は手術創とは限らないと思っています。手術創以外の場所が痛む。手術創の周囲の筋肉が硬くなっていて、そこに触れるとビクッとするぐらい痛む。手術創がヒリヒリだとすると、ジンジンしたりビリビリしたりという感じに。 その部位が交感神経優位になっているのかもしれない
9月24日 呼吸器外科のMoon(仮名)先生からの入院・手術の日程の連絡を待っています。 昨夕、夕食の食材の買い物からの帰り、ふと思いました。 「生きているということはほんとに偶然的な出来事なんだなあ」と。 自分の思惑とは関係なく、無数の偶然の組み合わせの結果として、今自分は生きているのだと感じます。 今回、大きい方で2.3㎝ほどの腫瘍が見つかったわけですが、上腕の軟骨肉腫の定期検査をしていなかったら気づくのはずっと遅くなっていたと思います。現在でも自覚症状はまった
2012年の秋に軟骨肉腫の診断を受け、翌年1月にO大学病院に入院、手術を受けました。手術後、当初は3ヶ月ごとに、その後半年ごとに定期検診を受けてきました。 手術から3年7ヶ月が経った2016年の夏、肺への転移が見つかりました。 2016年 8月28日 今まで順調な回復ぶりだったので、今回も楽観していました。 主治医のStar(仮名)先生の手術前の説明でも、成人の軟骨肉腫は転移・再発することが少なく、比較的性質のよい腫瘍だということでした。 ところが、今回撮ったCT
半年前、肩の痛みの原因が軟骨肉腫だとわかった最初の外来診療からの帰り道、「今自分の見ているこの風景から、この自分が消えていくことになるのかもしれない」と思いました。 その風景の中へ還ってきました。 この半年で、肉腫を取り除くのと引き換えに、からだの一部とどれほどかの機能を失ったはずでした。ただ、手術から2ヶ月足らず、どれほどの機能を失うか、どれほど回復するかの最終結果は出ていませんでした。 3.20(術後50日目) 「退院の朝。 軟骨肉腫。100万人に1人の罹患率
手術から1ヶ月が過ぎ、日常生活への復帰が少し見えかけてきた頃だったでしょうか。からだへの処置が少しずつ減っていき、身軽になっていきました。気持ちの面ではどうだったのでしょうか。自信や覚悟はまだまだ手の届くところにはなかったように思います。 3.1(術後31日目) 「いよいよ3月。 外部から携帯への電話がある。おそらく退院していると思ってのことである。そういえば、まわりの人々には『2月いっぱい入院』という言っておいたように思う。 特に何事もなく。手術痕からの浸出液が、
HCUから一般病室へという流れの中で、少しずつ少しずつ何かを取り戻していきました。しかし、どこへ戻っていくのか、どこまで戻れるのか、何もわかっていませんでした。 また、この1ヶ月をふりかえることもありました。ふりかえる1ヶ月ができていたということであったのかもしれません。 2.14(術後16日目) 「排尿の管が抜けたことで、夜間、看護師に見守られながら歩行器でトイレにいくことになる。 昨夜は、点滴後11時過ぎ-1時30分-4時30分の3回。 看護師への遠慮があって尿
手術して1週間が経ち、HCU(高度治療室)から一般病室に戻りました。 2.6(術後8日目) 「妻に差し入れとして梅干しと佃煮を持ってきてもらう。 Hill(仮名)医師立ち会いの元、装備を改良。装備のパッドと体幹の間に挟んでいたタオル数枚もパッドにし、装具と体幹の一体感が増し、身軽な感じになる。 ベッド上の移動や姿勢の変更も許可される。またStar(仮名)医師からベッドの操作も許され、ベッド内での自由度が増す。」 2.7(術後9日目) 「熟睡できる時間が長くなった
手術を終え、夜が明けました。 一晩越えました。これから越えなければいけないことがいくつあるか、何もわかっていませんでしたが、まずは一つ越えました。 わたしの手術の成否は血管がうまくつながるかどうかだと聞かされていました。 患部である左上腕の骨と筋肉の3分の2を切り取り、下腿の腓骨を移植する。最大の難点は、移植する骨に付随した血管を元の血管にうまく縫合することができるかどうか。血管がうまくつながれば移植した骨も生きる。血管が機能しなければ骨は時間の経過とともに萎縮して
この風景から消えていく ずっとカンチガイしていました。 私は私のことをすべて知っていると、私が知っているのが私のすべてであると。深層心理とか無意識などというような類のことではありません。もっと即物的に、たとえばとしてたとえるなら、雨漏りのために屋根裏の梁が腐りかかっていたのに気づいていなかったというような。 本人が気づいていないから事態は進まないというわけでは、もちろんありません。本人の知らないところで事態は進んでいました。 2012年、秋。受診しようと思いました