軟骨肉腫日録6 退院して
半年前、肩の痛みの原因が軟骨肉腫だとわかった最初の外来診療からの帰り道、「今自分の見ているこの風景から、この自分が消えていくことになるのかもしれない」と思いました。
その風景の中へ還ってきました。
この半年で、肉腫を取り除くのと引き換えに、からだの一部とどれほどかの機能を失ったはずでした。ただ、手術から2ヶ月足らず、どれほどの機能を失うか、どれほど回復するかの最終結果は出ていませんでした。
3.20(術後50日目)
「退院の朝。
軟骨肉腫。100万人に1人の罹患率ともいわれる希少ガン。
他への転移がなければ5年後生存率は70%以上。
左腕のこれまでの経過と今後のことを考えてみる。
装具のクッションがとれたのが15日前、上腕のガーゼ・包帯がとれたのが2週間前。
あせらないことだと思う。
パソコンのキーボードを両手で打ってみる。打ち間違いはあるが打てないことはない。左手のリハビリになるか、その肢位が回復に悪影響を及ぼすか。」
3.21(術後51日目)
「外来でリハビリをすることになる病院へ。
主治医のH医師のこの病院での勤務日。予後の説明と今後の治療方針を聞く。
血の混じった水疱が滲出を続けているが、自宅で自分で消毒・処置する。
週2回通院して、理学療法士にリハビリをしてもらう。
衣服の着脱などは自分でできていると言うと、 「ほぼゴールに近づいている」と。
肩関節は動かさずに、肘関節から先の機能で生活を行っていくことを勧められる。
『ゴールに近い』ということはこれ以上改善しないということか。ややガッカリ。
肩を吊っている針金は、他の論文で紹介されている例ではそのうち切れることが多いと。
ギョッとして聞き直すと、『その頃には肉が巻いていて骨頭は安定しているはずだ。もしチクチクと痛むようなら抜く』と。
また、『移植した骨は血流が悪いためにどうしても痩せ細っていく』とも。
手術から退院へとここまで来たが、元に戻ったわけではなく、今回の処置も一時的な対応で有限なものであったということ。
生きていることそのものがそうなのだといえばそうだが、いくらかの時間稼ぎだったのかと思う。」
退院後1週間
「退院時に何を心配していたか、思い出してみる。
○肩関節の安定性
○上腕上部の手術痕からの滲出液
○上腕部のむくみ・筋肉の短縮
○前腕部・手部のむくみ
○畳(床上)生活での起居
○長時間の外出・歩行での疲労
まず肩関節の安定について。
主治医のStar(仮名)医師から、『腕を吊っている針金はいずれ切れる』と言われ、『針金が切れたらどうなるんですか』と問い直した時は、ブラブラしている腕をイメージした。手術の最終結果は確定しているわけではなく、まだ流動的。その過程に自分がリハビリの努力でどれぐらい関与できるか。
手術痕からの滲出液。
消毒の際取り替えるガーゼに膿らしきものが付いていたことが一度あったが、退院5日目ぐらいで止まった。痕の割れ目からデベソのように頭を出していた肉塊も、表面が少しずつ堅みを帯び、やや小さくなってきた。
上腕部の状態。
むくみは日毎によくなってきた。
肘前面から上腕前面にかけての筋肉は硬直しがちである。肘を屈伸させた後、筋肉が腫れたように堅くなり動かなくなる。酸欠状態になっているか。該当する筋肉は腕トウ骨筋・上腕筋だと思う。理学療法師から上腕二頭筋の短頭が残っていると聞いてうれしくなった。鍛えようでは有効に使える。そう言えば、肘を伸ばすと烏口突起の辺りが引っ張られて痛むということが以前からあった。上腕二頭筋の短頭だったか。
1週間経過して、肘屈曲の自動運動はだいぶんできるようになった。
50日間肘を屈曲した肢位で安静にしてきたわけで、今も装具をつけるとその肢位になり、上腕前面の筋肉は短縮したままになっている。
前腕部・手部・指部のむくみ。
なかなかとれない。沈殿したリンパのようなものが各所に滞っている。特に手部・指部は細部に滞っているのか、マッサージをしても移動しづらい。徐々には改善しているが。
立つこと・座ること・階段の昇降など日常での生活動作について。
手術した部位を動かせない、あるいは、かばう。
手術したのは左の上腕と右の下腿であるが、下腿は最初から回復が早かった。元々正常であったから回復させる条件も整っていたと言えるのかもしれない。それに比べ、上腕は患肢であり術前にすでにダメージを受けていただろう。また、下腿が切除されただけなのに比べ、上腕はよそから持ってきたものとつながっていなければならない。からだがからだを再構築する。そちらの方が大変だと思う、わが身ながら。
手術の間接的影響もある。50日間の安静を中心とした生活で、全身の関節は固くなり、筋肉は衰えている。
退院してからの日常動作でまず違いに気づいたのは、ベッドの有無。
家では畳の高さが基本になる。畳に坐り込んだ姿勢の重心を押し上げて立つ。そして、畳の高さに重心を下げてきて坐る。次の動きで同じことを繰り返す。
しばしばある姿勢で動きを止めて考える。今の重心の高さを維持したままで目的の所作を済ませることができないか、この時点でどの姿勢に移行しておけば次の、更には次の次の動作に便利か、と。
重心の垂直的な移行は下半身の関節の屈伸による。股関節・膝関節・足関節を屈伸する能力、つまり関節の柔軟さと筋力。ディープ・スクワット。つまりは和式トイレにかがみこんだ姿勢。この姿勢がとれるか、そしてそこから立ち上がることができるか。これが、自己流リハビリの下半身のポイント。」
「それでも、1週間の時間が経てば何かが変わっていく。
自分が意識的にしていることとは別に身体が変わっていく。
治っていく。
1週間前の不安が打ち消されていく。」
退院後3週間
「1日ではわからないが、1週間経つと何かが変わっている。
装具を外したままにする時間を長くした。就寝時。床に横たわって休む時。
今まで肘を屈曲したままにする時間が長かったが、伸ばしている時間をできるだけ長くしようとする。
そのままトイレに行く時も装具をつけない。入浴時、これまでは簡易のものをつけていたが、つけない。
肩関節を保持する力が少しずつついてきていると思う。上肢をぶら下げたままでも大丈夫かなと感じている。揺らせるのはまだ恐いが。
退院後初めて解剖の本を取り出して、腕の筋肉を確認する。
その図にはあるのに、自分の腕にはなくなった筋肉。上腕の屈筋は3分の2を取ったと、医師は言っていた。
肘を屈伸する運動を繰り返すと、10回ほどで筋肉が限界になる。マッサージをしたりストレッチをしてから、もう1セット。
現状では上腕筋が肘の屈曲に一番大きく関係していると推測している。これをほぐすことで動きが改善するのではないかと思う。
手術痕の消毒も手軽になってきた。Star医師からガーゼを外してシャワーで洗い流してもいいという指示が出た。
入浴前に、ガーゼを外した自分の姿を鏡に映してみた。
肩から腕にかけてゲッソリと筋肉が落ちている。関節部は骨に皮を貼っただけのようだ。長い手術痕のうち谷間のように窪んでいる部分もある。この状態から大きく変わることはないのだろう。
入浴の際浴槽に入ることも許可された。2ヶ月余りぶりになる。
仕事への復帰を考える。
自分で決断しないといけない。無理をしてもいけないが。」
退院後4週間
「術後3ヶ月が近づいてくる。
Star医師の問診の際、わたしの方からいくつかのことを質問した。
上腕部の骨を止めている針金がいつか切れるかもしれないということ。答は、前回と同じ、切れた針金で痛むのであれば抜くということだった。それほど問題とは考えていないという印象。
回旋筋群はその骨に付着しているかと質問したみたが、付着していないということだった。確か、術前の説明では針金のどこかにくっつけるということだったと思うが。ということは、鍛えるにも回旋筋群はないということなのか、と聞こうとして聞けなかった。
なんとくなく、腕が抜けてしまうのではと心配していたが、そうではないらしい。肩甲骨と上腕の骨が離れてしまい、それらをつなぐものがないとしても、皮膚が引っ張っている。皮膚の中に骨が浮かんでいる状態。また、『肉が巻いている』とも。傷痕のように固くなった筋肉が骨頭を取り巻いていて抜けにくいということか。いずれにしても、本来の形ではないが、それらしい外見とはたらきがある程度残されるようだ。
仕事を再開したり日常生活の起居をよりラクにするために、筋力をつけることをめざす。
肘の屈伸のための上腕の筋肉。ただし、3分の2は切除されている。鍛えればどこまで筋肉量がふえるのだろうか。
肩関節を固定し動かすための回旋筋群はどうなっているのか。
外から見る限り、肩関節の周りは骨と皮だけ。わずかなスジを鍛えればどうにかなるのか。
ただ、今の時点で「鍛える-負担をかける」をやりすぎれば、吊っている針金が切れてしまうのではないか。そんなことを考え、迷う。
起居のために腹筋・背筋を、立位-坐位-臥位の転換のために股関節周辺の筋肉を、鍛える。これらは何の迷いもなく鍛えられる。」
「できるだけ歩く。1時間、1時間半と歩く。
かつて走っていたコースを歩くことが多い。当然ながら時間のわりには遠くまでいけない。
いつのまにか懸命に歩いている。スピードを出そうと歩いている。
ジョギングの人が走り抜けていく。すれ違う車の中で運転者が携帯電話をしている。だれもが忙しがっている。
自分は何のために速く歩こうとしているのか。速く歩いて何の意味があるのか。少しばかり早く目的地に着いてどうするのか。
自分に、急ぐほどの目的がないことに気づく。」
「術後3ヶ月を前にしてCTスキャンを撮る。
手術の数日前にも撮ったと思う。あの時とは状況がずいぶん違う。いや、あまり違いはないのか。けれども、今はあの時をふりかえることができる。比べることができる。
あの時はその後を予想することができなかった。想像できなかったというよりも、想像しても意味がなかったのか。
今はどうなのか。先のことを考えても仕方がないというのは同じかもしれないが、『あの時』をふりかえり、『あの時』と比べることができるというのは明らかに違う。」
術後3ヶ月(退院後1ヶ月余り)。
「先週のCTスキャンを参考にして診断してもらう。
画像では腫瘍らしきものは見当たらない。肩後面に少し水が溜まっているようだが問題ではないと。
肩関節の可動範囲を計測する。屈曲伸展・外転、いずれもほとんど動かない。自分としては安定に努めてきたので、当然と言えば当然。
『これから動かす練習をしていもいいですか』と問うと、OKという答。がんばることにする。
それから1週間ほど経ち、肩関節を動かし始める。
動かそうとしてみると、予想外に、少しぐらいでははずれそうもないと確信する。
家でいる間はほとんど装具を付けない。
身障者手帳の申請手続き。」
術後4ヶ月を前に
「起床時やイスでの作業が続いた後など、上腕の筋肉が硬く重くなっているという違和感がある。痛みはない。
毎日のように歩く。肩から吊す装具をつけて、1時間から2時間近く。
30分を過ぎた頃から手がしびれる。装具をはずしたりゆるめたり、歩きながら肘を屈伸させて血行をよくしようとする。一時的に改善する。歩行を終るとすぐに改善する。どこが原因か考えている。
どこまで改善するのかと思う。
自分でマッサージをする。肘関節・肩関節を動かす。少しほぐれる。
状態が固定しているわけではない。どこまで改善するか。
肩関節はわずかに屈曲できるようになった。本来使う筋肉で、ではない。それはもう切除されて、ない。他の筋肉でどこまで代用できるか。」
「病院のベッドにいる時は、何も目標にしていなかった。治っていくことも目標にしていなかった。
そう言えば、幼い頃から雨の日が好きだった。それは、無為でいられる、無為でいてもいいと感じていたからだと思う。
病院にいる時も同じような感覚があった気がする。どこへも向かっていない、何かのために準備する必要もない。ただそこにいるだけだった。
退院してからいつのまにか目標を持ったり準備するようになっていたかもしれない。
歩いていても、何かを目標にしていたかもしれない。目的地であったり、距離であったり、時間であったり、十分疲労することであったり。
何の目標も持たずに歩き出してみる。
迷うように道をたどっていく。
どこへも向かっていない。ふわふわと漂流するように。
これが、あの病院のベッドにいた時に近いのかもしれない。
歩いているけれど、横たわったままのような。歩いているけれど、どこにも向かっていない。
曲がり角では、見慣れない方を選ぶ。
何かを、どこかを目ざすことを、解除していく。」
「『今まで55年間生きてきて、今が一番幸せかもしれない。』
妻と話していて、そう言ってしまった。
意外と不幸ではない。外から見る人はそんなように見ないかもしれないが。
これは何なのだろうと考えている。
何を幸せと考えるか、この1年で変わったような気がする。(実は自分に起こったことだけでではなく、家族に起こったことも含めてだが)この1年経験してきたことがゆっくりと自分を変えてきたような気がする。
外から見て同情(?)してくれる人の目に映る自分と、内側から自分が見ている自分は明らかに違うと思う。
意外とそれほどでもないのですよ、と言いたくなる。
双六にたとえると、このところサイコロをふる度に、目は5か6、という感じだ。たぶん外からはそのように見えていない。」
自分の半生をふりかえって、自分は「ことば」の人間だと思います。
この日録は「ずっとカンチガイしていました。私は私のことをすべて知っていると、私が知っているのが私のすべてであると」と書き始めました。
それまでの自分の「ことば」ではどうにも取り繕いようのない事態の中でとりあえず記しつづけてきたのが、この日録です。
やはりこの「ことば」も取り繕いだったのかもしれないという思いはありますが、それでもともかくそのときの自分を多少なりとも慰謝したかもしれないというのは事実のように思います。改めて「ことば」の人間だったのだと思います。
一応の一区切りですが、〈転移篇〉へつづきます。