軟骨肉腫日録1

この風景から消えていく

 ずっとカンチガイしていました。
 私は私のことをすべて知っていると、私が知っているのが私のすべてであると。深層心理とか無意識などというような類のことではありません。もっと即物的に、たとえばとしてたとえるなら、雨漏りのために屋根裏の梁が腐りかかっていたのに気づいていなかったというような。
 本人が気づいていないから事態は進まないというわけでは、もちろんありません。本人の知らないところで事態は進んでいました。

 2012年、秋。受診しようと思いました。
 夏ごろから右肩が痛みはじめていました。夜間睡眠が妨げられることもありましたが、「四十肩、いや五十肩というべきか」というぐらいに思っていました。
 11月になって、「ちょっとどうにかしよう。肩関節周囲のブヨブヨは水が溜まっているのだろうから、それを抜いてもらったららくになるかな」と思ったのでした。
 家族が土曜日の夜など診療時間外に熱を出した時に、自分の車で連れて行く総合病院があります。その日、わたしは自転車にまたがって、家を出ました。

 レントゲン写真1枚で、軟骨肉腫と診断されました。
 担当医はたぶん大学病院から派遣されていた若手の医師だったのではないかと思います。軟骨肉腫はまれな疾患ですから専門医も少ない。診察した医師は即座に所属している大学病院のStar(仮名)医師に連絡をとってくれたようですが、その場では連絡がつきませんでした。わたしが駐輪場に戻ったところに、看護師が急いで駆けつけてくれて、連絡がついたことと本格的な受診の手続きを教えてくれました。

 屋根裏の梁が腐りつつある。家が倒れるかもしれない。

 1時間前にやってきた道を逆にたどりながら思いました。
「今自分の見ているこの風景から、この自分が消えていくことになるのかもしれない。」

シカタガナイナァ

 数日経ってからだったと思います。Star医師の受診予約がとれ、診察を受け、診断が出ました。
 左上腕骨の軟骨肉腫。悪性腫瘍の一つ。骨の癌。希少がんの一つで、罹るのは何10万人に1人。他のがんと同じように、他の臓器から転移したものと、最初に骨にできる原発性のものとがあり、原発性の方が比較的予後はよいということで、わたしの場合は原発性であり、最初の診断時には転移は見つかっていませんでした。

 治療法は、抗がん剤や放射線治療は有効でなく、患部の切除手術しかないということでした。
「腕を切り落とすのならかんたんなのだがなぁ」という冗談まじりに言うStar医師の口元を眺めていました。
 ことばとは裏腹に担当の医療チームは懸命に腕の姿形を残そうとしてくれていたと思います。そのためには下腿の腓骨を移植する。骨だけではなく周辺の血管も移植する必要がある。骨は生きていて日々新陳代謝するから血管も必要なのだということを、その時知りました。
 腕や脚の運動機能がどれだけ残るかは、上腕骨・腓骨周辺の神経をどれだけ傷つけずに手術することができるかによる。肩関節の機能は残らない。つまり、腕は腕自体の力では上がらない。 
 
 当時、家族のそれぞれが逆境にありました。
 妻は半年前に甲状腺がんが見つかり手術していました。息子と娘もそれぞれに心身の不調に陥り休養状態にありました。唯一健康で元気であるはずだったわたしが、このような状態になりました。
 
 何もよくわかっていませんでした。
 何かを失う。何を、どの程度、失うかはよくわかっていませんでした。
 何かを失わないで済む。何を失わないで済むかは確約されていませんでした。
 失わないために越えなければいけないものがあるとは思っていましたが、それが何かもわかっていませんでした。

 シカタガナイナァ。
 前に進むしかありませんでした。進んでみて、自分に何かが残っていたら、家族を支えよう。そう思うだけでした。迷う余地がないということは一つの救いだったのかもしれないと、今は思います。

入院まで

 Star医師の診察を最初に受けてから、入院・手術の順番を待つまで2ヶ月近く待機しました。診察前と同じ暮らしを続けました。痛み止めの薬だけが処方されました。あまり服用しませんでしたが。
 Star医師からは「絶対に転ばないように」と言われました。腕の骨はきわめてもろくなっている。ここで転倒して骨折してしまうと、手の施しようがなくなるということでした。その戒めを胸に正月が通り過ぎるのを待ちました。

 ジョギングを日常の習慣としていたわたしは「術後、ジョギングできますか」と問うたことがありました。医師の答は「できない」ということでした。
 日頃走っていた公園のゆるやかな丘陵を「これから一生、ここを走ることはできないのか」と思いながら、上り下りしたのは入院の数日前でした。

 背中に悪寒を感じ、「これでは風邪をひいてしまうので」と不安になり、大学病院に電話してみると、早めに入院してよいとのこと。荷物をまとめて、予定を1日早めて入院しました。

手術へ

 入院後、手術に関する説明を受けました。
 術後HCU(High Care Unit 高度治療室)に1週間入ることになるという説明もありました。同室の人たちに雑談風にそのことを話すと、彼らは一様に驚きました。HCUに一晩いることもなかなか大変なことのようでしたが、そのときのわたしは実感を持って想像することができませんでした。

1.28(手術前日)
「16階の窓から夕暮れの大阪の街を見ていた。
これまで感じていなかった不安のようなものがふと浮かび上がってきた。不思議とそれまで不安に類するものは感じていなかったのに。
『手術前なのだからこれぐらいは当然なのだろう』と思いつつその気持ちの扱いに困った。
これまでわたしは自分の物語をデッチ上げてきたのかもしれないという思いが浮かんだ。わたしが知っているわたし。自分の都合のよいように切り貼りしてきたわたしという物語。今、物語が無効な場所に立っているのだと。」

1.29(手術当日) この日の項、後日回想して記す。
「昨夜は意外とぐっすり眠れた。
いよいよここまで来たという感じがする。

昨夜、敬愛する精神科医の中井久夫氏の「祈りのない処方は効かない」を読んだ。
『老人には二つの生き方があるように思う。一つは、若い時の生き方を続けていつまでも若々しい老人が、ある時にパラシュート降下のように急に年相応に老いて亡くなる場合である。精神科医である私がそれを知っているのは、パラシュート降下に比すべき急激な変換の際に悪夢をみ、抑鬱になり、意識障害を起こすことがあるからである。
もう一つは、人生の折り返し点を何ほどか過ぎた時に、それまでの生き方を大きく変える人である。あるいは何かの大事件、たとえば大病や奇跡的生還や親しい者の死を契機に生き方が一変する。こういう人は老いと死に向かって緩降下してゆくようだ。
よく見ると、前者は、時間に沿って生きている。いかにも前向きのようであるが、過去の生き方を続けてゆく点では後ろ向きである。この人たちは〈もう何年生きてきたから〉あるいは〈まだ何年しか生きていないから〉生きつづける人たちである。
後者も、折り返し点を過ぎるまでは、あるいは大事件に揺さぶられるまでは、前者と変わらないのであろうが、その時点からは、死の時から逆算して生きるのではあるまいか。大事件を経た人は、むしろ『後は余生である』という。戦後まもなく激戦地から生還した人からよく聞いた台詞である。』

時間が来て、何かを考える間もなく手術室へ歩いて向かった。
わたしが手術台に横たわり、担当医療チームが手順通りに物事を進め、わたしは眠りの中へ落ちた。

21:30 麻酔から醒める。
手術は予定より3時間ほど長くなり12時間余りかかったという。待機していた家族は最悪の場合を考え、ひどく心配したという。

おそらくは手術から出た時点で、ベッド上から家族の顔を眺め、家に残した娘への冗談を発したという記憶を残し、わたしは再び麻酔の闇へ落ちていった。
 
HCUのベッドの上で目覚めた。
眠りのこちら側には痛みが待っていた。
特に腓骨を採った右下腿。
足首の角度を変えたり、少しでも楽になる肢位を探すが、見つからない。動かす間の数秒間だけは痛みをごまかせるような気がする。
時間が経てば何かが変わる。今よりもましな状態になる。そのことだけを頼りに耐える。今の瞬間の痛みをやり過ごすことだけを考える。

24:00。激しい痛みをかかえて約2時間。うがいをさせてもらい、口を湿らせる。乾きを少ししのげたのと、単調な時間の流れに変化があったことが、うれしい。座薬が入れられ、しばらくしてうとうとし始める。」


 最初の診察から2ヶ月余り、待っていたその日が終わりました。
 すべてが終わり、すべてがはじまりました。

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