集中の深さが違う。
#20231230-330
2023年12月30日(土)
そこまで気を張って、毎日を過ごしているつもりはないのだけど。
張ってたんだなぁ……
ここがどこだかわからず、私はぼんやりとした目でむーくん(夫)を見上げた。
27日から2泊3日で、ノコ(娘小4)が習い事の合宿へ行っていた。
里親にはレスパイト・ケアという制度がある。
里親が休息のために、児童相談所を通して、養育中の里子をほかの里親家庭や乳児院、児童養護施設などに預けることができる。これは休息のためなので、特別な理由はいらない。
我が家も過去に2回利用したことがある。
委託直後に私が体調を崩して寝込んだときが1回目。むーくんは職業柄、急な欠勤が難しい。にっちもさっちもいかず、先輩里親家庭にノコを1泊お願いした。2回目は私が検査で病院へ行かねばならず、時間がかかりそうだったため、やはり里親家庭に数時間預かっていただいた。
どちらも体調がらみで、休息やリフレッシュではなかった。
時折、レスパイト・ケアを「わたし時間」、もしくはむーくんとの「大人時間」のために使いたいと思う。
だが、せっかく使うのなら数時間ではなく、2泊はしてほしいなぁ、と欲が出る。
ほかの里親家庭でノコが2泊過ごして、「やっぱりお家がいい」となればいいが、期限が見える短い期間だとどうしてもお客さん扱いになる。「〇〇ちゃんちはこうだった」「〇〇ちゃんのママはやらせてくれたし」「〇〇ちゃんちで暮らしたい」と帰ってきてからいわれると、さすがに気持ちが沈む。
帰ってきてから、お互いやっぱり「一緒がいいね!」となるならば、離れた時間がよく活きたとなるのになかなか難しい。
そういう意味では、費用はかかるが、習い事の合宿は好都合だ。
合宿先でノコはさまざまな体験ができる上に、指導や責任者の大人はいるが、「親」でもなければ「家庭」でもない。解散場所では、迎えにきた家族に子どもたちは嬉しそうに駆け寄っていく。出発時に「行きたくない」と泣く子どもはいるが、解散時に「帰りたくない」と駄々をこねる子どもはいない。
一緒に過ごした合宿の時間がどんなに楽しくても、ここでおしまい。
いつまでも続くものではない。
ノコもリーダーや新しくできた友だちとぎゅうと抱き合って別れを惜しむことはあっても、「帰らない」とはいわない。合宿の回数を重ねるごとに、別れの儀式は簡素になり、私たちが迎えに行くとさっさと大きな荷物はパパに持たせ、甘えた声を出して私と手をつなぎ、合宿中にあった出来事を機関銃のように喋りはじめる。
荷物が多く、かさばるので、送迎は極力夫婦でするようにしている。
むーくんが年休を取得できるのならば、ノコの合宿中はどっぷり「大人時間」にすることもある。今回は年末ということもあって調整が難しく、1日目は休みだったが、2日目と3日目は出勤となった。
初日の集合時間は朝早い。
ラッシュに慣れないノコを連れての移動は大変だが、むーくんがいればさほど焦らずに済む。そして、なにより受付を済ませてしまえば、即「大人時間」に突入だ。
朝8時にすでに都心にいて、思うままにしていいなんて滅多にない。
大抵朝から開いているカフェでお茶をしてから、朝一番上映の映画を観る。今回は「ゴジラ-1.0」。
いつもなら、そこから美術展や店を巡ったりして、夜遅くまで街を遊び倒す。
なんだろう、コロナ禍がおさまった体だからだろうか。年末だからだろうか。今回はやけに街に人は出ているし、人気の美術展は長蛇の列ができている。
人が多くて多くて、ショップ巡りをする気力がない。
むーくんが沿線の模型店を覗きたいというので、手をつないでのんびり向かう。
電車の乗り継ぎもむーくん任せなので気負う必要がない。
ノコにトイレへ行く声掛けや人混みを歩く際にはぐれないよう、ぶつからないよう、手を引く必要もない。
移動する電車で本を開くと、すぐ没頭してしまい、私はいつのまにかバンクーバーにいる。むーくんに呼ばれて顔を上げれば、ここがどこだかわからない。
そこまで気を張って、毎日を過ごしているつもりはないのだけど。
集中する深さがノコがいないだけで明らかに違う。
日頃、何かしていても薄く意識をノコのほうへ延ばしていたのだろう。
時間と意識が自分のもとに戻ってきた。