ペアルック今昔と自意識
若い頃、恋人とペアルックになることを異常に嫌いました。
恐れていた、の方が近いです。
デニムとTシャツ、で待ち合わせに互いが登場しようものならそれだけで「グッ、…!」
更にTシャツの色やロゴが一緒だった時の剣幕は酷かった私です。
「着替えてきてよ」と宣うこともありました。
どこの大御所でしょうか。
時は過ぎて歳を重ねてもこの片鱗というか核はあり続けますが角が立たないような悪知恵がつきました。
「わ、どん被り!!」
となるとそれはもう何事もなかったようにしれっとその服は最初から持ってませんでしたよ、ええ。みたいな風を装います。
私の言語でいうところの擬態です。
これをやめたいので段々とやめているところです。
この核となっているのは私の恥ずかしさ、羞恥心。
爺騎士から、いえ自意識から来るものなのかなあと考えています。実際はどうなんでしょう。
街中やご近所では小物が一緒ぐらいのひとを見掛けたら寧ろ親近感しかないのにです。
話の糸口になるな、と。
お、同じ店が好きなのかな?と思うのに恋人だとそうはいかない。
ややこしいのがこれまでの私でした。
でもそうしていると当然ながら手持ちのワードローブを使わなくなって無難な服を着るしかなくなります。
目立たないように見つからないように。
存在を消そうとしてしまう。
お気に入りの服がなくなったようになっていく。
着たい服を着れなくなる。
そのうち何が着たかったかさえ分からなくなる。
本末転倒っぽくなってくる。
私は一体何をしているのか?かくれんぼばかりする。
そうなるともう言葉に詰まってぎくしゃくして手と足が一緒に出るようなぎこちなさ。
ぐうの音も出ないとは私の場合ここで使いたいです。
目も合わせられなくなり、視線のリレーが絶好調になります。
このリレーとは繋ぐリレーではなく外すリレーです。
絶妙なまでに、信じ難い間合いの呼吸で視線を外します。
ガン見、パッ!ガン見、パッ。………、ちら、パッ!
絶妙に外せるくらい察知する。というつもりさえも爺騎士の、いえ自意識の範囲の勘違いかもしれません。
こうなるとガン見してなくともハッ!となることも増えるように思えてもきます。
その一方でそれは脇見運転も誘発しかねないと思われるかもしれません。
これはある意味では一種の特技なのかも知れないなと思い始めている昨今です。
思い込みのアップグレード。
リレーションシップの綾をポイ。
なんかそうなんだからもうしょうがない。
もう!
もうを言う。
そうやって自ら封じたワードローブや言語を開放すれば更に新たな服や言葉、小物、文化が生まれてきて満たされ幅も広がる。
自分をこうして広げて、寛げていくことはそれぞれのペースやメトロノームに場の雰囲気も伴います。
一人ひとりできる時ややり方が違う。
歩幅、テンポが揃うことの要素とは一体どんなものがあるのかなあなどと思いを馳せたりもします。
そんな事を思う9月です。
もうを言っていきましょう。
♡♡♡
約2時間半の旅行✈️
調個人的な旅の栞。旅の恥はかきすてといわれています、あら本当かしら?という訳で。
ひまでひまでひまんとがわだわーという時などのお供になれれば幸いです