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2024年11月に読んだ本まとめ【読書感想文】

 はいはい、光陰矢の如し光陰矢の如し。止まない雨がないように暮れない年もない。いくら嘆いたって仕方がないのだからもう2024年の12月であるという現実を甘受しなくてはならないのだ。あと1ヶ月もすれば2024年が終わって2025年になる、ただそれだけのことじゃないか。



 アーーーーーーーーーーッ!!(断末魔の叫び)



↓いつもの

 ※あらかじめ断っておくと、これから述べる感想には容赦ないネタバレを含むどころか、あらすじや内容を説明するのが面倒臭いという筆者の怠慢によりこれを読んでいる貴方がその本を通読しているという前提で話が進む可能性もあるので、これからその本を読みたいと思っている方々は速やかにブラウザバックしてください。まあ最低限説明しなきゃいけない部分は極力するようにしますが。


11月の読書記録(ログ)

プリーストリー/作 『夜の来訪者』(岩波文庫)

 人間のエゴや負の部分を鮮やかに描写しながらも、教訓的な臭さを全く感じさせないのはストーリーの展開が申し分になく面白いからだろう。読者の興味を惹き付けてページを捲る手を止めさせないのが一流の劇作家たる所以でもあるといえる。

 いつになっても色褪せない名作とはこういう作品のことを指す言葉だな、と強く実感した一冊。現代にも通底する類の純粋なエンタメ性を堪能出来るので、読んでいて楽しかった。


成田 奈緒子,上岡 勇二/著『その「一言」が子どもの脳をダメにする』(SB新書)

 上記の記事に書いたので割愛。追記したいことがあるとすれば、私の親には私の名義宛で届いた郵送物を勝手に開封する悪癖があるということ。


朝井 リョウ/著『生殖記』(小学館)

 今回の小説は特に朝井リョウ節が強く出ていて、ところどころ笑いながら読んでしまった。

 ネタバレすると主人公を含めたLGBTQ+の人間が「拡大、発展、成長」というキーワードと絡められながら生殖器(生殖本能)の目線でその生活を語られていく、という話なのだが、相変わらず読んでいると裏の裏の更に裏を突かれた感じがして、読む者に短絡的な思考を一切許さないという著者ならではの心意気を感じた。

 朝井リョウの小説を読むといつも、自分の中で複雑に絡み合ってしまった思考の糸が小説内での言語化という行為を通して解きほぐされていくような感覚を味わうことになる。

 今回私が解きほぐされた糸のひとつとして、最近のLGBTQ+に関する世相というか世間の風潮問題というものがある。

 たとえば誰かが性的マイノリティであることをカミングアウトしたとして、今の時代はそういうのにも理解があるから同じ一人の人間として平等に接しましょうね、という空気がある。

 しかし、「そういうのにも理解がある」という態度はただの「思いやりの擬態」、であるとも捉えられかねない。性的マジョリティの人間からすれば、性的マイノリティの人間に対して一旦「理解を示す」という行為を経由しなければならないのだ。

 この「理解を示す」という行為は一見優しさのようにも見えるが、よく考えるとこの行動は自分を主軸とした視点からしか生まれない。マジョリティ側の人間は、今現在の自分の位置の視点では見えないものを見ようとして、体勢を変えて相手の目線に合わせるという行為が必要になる。

 これがもし、LGBTQ+という性的マイノリティがあらかじめ今ある視認範囲に含まれている、つまり自分の中にナチュラルな既存的な感覚として溶け込んでいればわざわざ目線を合わせるために体勢を変える必要もない。

 今の時代は、「理解を示す」という雰囲気が当たり前になっているけれど、ここをフォーカスしすぎるとマジョリティ側の人間がマイノリティ側の人間に合わせるために体勢を変えるという部分が図らずも強調されてしまい、マイノリティ側から見ると世界はマジョリティ側の人間を主軸として動いているのだということを嫌でも痛感させられてしまうのだろう。

 だから今現在世間に蔓延っている「LGBTQ+に理解を示す」「LGBTQ+を認める」みたいな風潮における「理解を示す」とか「認める」みたいな言葉が、当事者側からしたらマジョリティ側のひどく傲慢な態度として受け取られても仕方ないよな、と思う。まあ仕方なくはないんだけど。ある一個の明確なアンサーをまだ自分の中で確立出来てはいないが、そういうことを考える契機を得られたという意味で有為な読書体験だった。


橋本 翔太/著『わたしが「わたし」を助けに行こう-自分を救う心理学-』(サンマーク出版)

 自分の中にいる「ナイトくん」はいつも自分自身を支えてくれていた。学校に行くのが嫌だったのも、スイミングスクールに行くのが嫌だったのも、今会社に行くのが嫌なのもどれも「ナイトくん」というもう一人の自分が自分のことを守るために闘ってきたことの証なのだ。

 ここ最近労働に行く前の朝、便器に向かって何度もえずきながら嘔吐を繰り返してるのもこの本でいうところの「ナイトくん」の働きによるものだったのだと思うと多少は気が楽になる。
 ということで最近の嘔吐事情も含めて(そんなモンわざわざ報告すな)、ちょっとこの本に関してはまた別個の記事で詳しく感想を記したいと思う。

 簡潔な感想としては今まで自分が感じてきた苦しみや悩みのすべてがゆっくりと眩く照射されていくようで、意味のない辛さなんて存在しなかったんだという晴れやかな開放感を多少なりとも得ることが出来たので良かったですね。


アラン・ド・ボトン/著『メランコリーで生きてみる』(フィルムアート社)

 今の社会は人々の悲しみや苦しみを排除し、幸福な生活を得られる方向へと誘導していくきらいがある。しかし悲しみや苦しみは排除すべき悪ではなく、ただそこにあるものとして付き合って生きていった方が賢明で、それこそが「メランコリー」な生き方なのだと著者は説く。

 この本の中には、「メランコリー」な気分になりやすい私のような人間が上手く生きるために必要な指針の数々が満遍なく散りばめられている。

難しいように思われるけど、内向的な人の人生も、非常に快適で豊かなものになりうる。わたしたちは、人よりはるかに少ないもので十分満足できる。騒ぎ声も注目も不要だ。(中略)内向的な人とは、できごとやほかの人の本質を理解する準備がきちんとできている人のことだ。なぜなら、手強いもの、強烈なもの、共鳴するもの、美しいもの、恐ろしいもの、こうしたすべてを経験からわかっているからだ。

アラン・ド・ボトン『メランコリーで生きてみる』「内向性とメランコリー」p61より引用

人とのつながりを渇望しているからこそ、たいていのパーティーを嫌うのだ。よくあるパーティーでは、こちらが強く求めているような深いつながりがまず得られない。わたしたちがひとりでいたいのは、人付き合いを心底好まないからじゃなく、真のつながりを強くのぞんでいるから。人とつながっているように錯覚させるパーティーでは、孤独感をかえって強く意識させられて胸が張り裂けそうになるからだ。

アラン・ド・ボトン『メランコリーで生きてみる』「パーティーとメランコリー」p91より引用

よくよく見れば、だれひとりとして普通の人生も、超幸せな人生も送っていない。人生は誰にとっても苦しいものだ。自分が知っている本当の自分を、ほかの人たちが見せびらかしている人生とくらべるのはやめよう。

アラン・ド・ボトン『メランコリーで生きてみる』「内なる批評家とメランコリー」p202より引用


 どのページを読んでもしっくりくる言葉の連続だ。私は今後、この本を幾度となく読み返すか知れない。

 この本は自分の中にある「メランコリー」を掻き消すことにわざわざ奮闘しなくても良いのだという大事なことを教えてくれた。

 2024年があと1ヶ月で終了することだって、こちらをどうしようもなく「メランコリー」な気分にさせるけれど、でもそれで良いのだ。
 「メランコリー」を感じるということは、それだけ自分の危機的状況を正しく認識出来ているということだ。未だ何も為し遂げず、何も前進していないこの自分の危機的状況を。


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 アーーーーーーーーーーッ!!(断末魔の叫び)



つづく 

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