【恋愛小説】ろうそくのニオイ:炎のゆらぎに魅せられて

東京の片隅に、古びたアパートが静かに佇んでいた。その一室に住んでいるのは、30代半ばのサラリーマン。毎日忙しい仕事に追われ、帰宅するたびに疲れた体をソファに投げ出し、何も考えずにテレビをつけることが多かった。だが、最近、彼の夜の過ごし方には変化が訪れていた。

それはある晩、無意識に手に取ったろうそくの火から始まった。何気ない動作だったが、その炎の揺らぎを見つめているうちに、彼は不思議な感覚に包まれた。小さな頃、祖母の家で見たろうそくの灯りが、どこか懐かしく感じられたのだ。あの時の温かな光が、今でも心の奥に残っている。あの灯りが、彼にとってはただの明かりではなく、静けさと安心感をもたらす存在だった。

「こんなにも心が落ち着くものなのか…」

彼は、ろうそくの炎がゆっくりと揺れる様子を見つめながら、心の中で呟いた。その火の揺らぎには、何とも言えない魅力があった。ほんの少しの風で揺れ、またすぐに元に戻る。炎が消えることなく、ただ静かに存在し続けるその姿に、彼は深い安らぎを覚えた。

ある日、隣の部屋に住む女性がやってきた。彼女は彼のアパートの隣に住んでおり、よく顔を合わせるが、いつも短い挨拶を交わす程度だった。しかし、その日は何かが違った。彼女は少し戸惑いながら、彼に声をかけた。

「ねえ、すみません、ちょっと気になったんですが…部屋から、なんだかいい匂いがするんです。」

彼は驚きながらも、何となく恥ずかしくなった。

「ああ、それは…ろうそくの匂いです。毎晩、灯してるんです。」

彼女は目を見開いた。

「ろうそく?それって、なんだか意外ですね。忙しい日々の中で、そんな時間を持つなんて。」

彼は少し照れながらも、彼女に話を続けた。

「いや、最初はただの習慣だったんですけど、最近は、あの火のゆらぎに引き込まれてしまって。見るたびに心が落ち着くんです。」

彼女は少し考え込むようにしてから、静かに言った。

「私も、たまにろうそくを灯したくなることがあります。火がゆらぐ姿って、どこか不安を忘れさせてくれる気がするんですよね。」

彼は彼女の言葉に共感しながら、しばらく無言でろうそくの炎を見つめた。彼女もまた、彼と並んでその炎を見ていた。炎は静かに揺れ、まるで二人の心を溶かすかのようだった。

「でも、ろうそくの火って、消えちゃうんですよね。」彼女が続けた。

「そうなんです。」彼は小さく笑いながら言った。「でも、だからこそ、その瞬間が大切に思えるんです。消えた後の静けさもまた、美しい。」

彼女は頷き、ゆっくりと口を開いた。

「確かに。消えてしまうからこそ、その時間が貴重なんですね。どんなに美しいものでも、永遠には続かないって、わかっているからこそ、今を大切にしたくなる。」

その言葉に彼は深く頷いた。彼女との会話は、どこか心を温かくするものがあった。ろうそくの火が消えても、その温もりが心の中でじんわりと広がり、彼はその余韻に包まれていた。

その晩、彼はまたろうそくを灯した。彼女と交わした言葉が頭の中で響き、炎の揺らぎに心を委ねる時間が、何よりも大切に思えるようになった。彼にとって、ろうそくの灯りは単なる照明ではなく、心を静かにさせる大切な存在となった。

「この火が消えるまで、何も考えずにただ感じていたい。」彼は静かに思った。灯りが消えるその瞬間まで、彼はただその揺らぎを見つめていた。

翌朝、目を覚ますと、ろうそくの火は消えていた。しかし、彼はそれを少しも寂しく感じなかった。むしろ、その消えた火の温もりが心の中でじんわりと広がり、彼はその余韻に包まれていた。

「また明日、灯そう。」

そう心に決めた彼は、日常の忙しさに戻りながらも、ろうそくの灯りがいつでも心の中で燃え続けていることを感じていた。炎のゆらぎに魅せられた時間は、彼の心に静かな光を灯し続けていた。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集