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あなたの“積ん読”第1号は何ですか?


読書人生を変えた商店街


いま、ちょっとわけがあってゾラの『居酒屋』を読んでいる。新潮文庫、古賀照一訳。


これが、厚い。そして長い。
文庫で700ページを超える大部の書である。

じつのところ、めちゃくちゃ面白いと思って読んでいるわけではない。
だからもし不意になにか忙しい事情が舞い込んでくれば、すぐに読む手を離してしまうかもしれない。通読できる自信は、まだない。

実は最近買ったのではない。
しばらく本棚の中に放っておいたものである。
裏表紙にはまだAmazonのバーコードが貼ってあった。
履歴を調べると、2017年2月に購入している。
買ってから七年以上も、放っておいたことになる。 

昔は、こんなことはなかった。

本に親しみはじめた小中学生のころ、一度手にとって読み始めた本を読み通さない、なんて不埒なことは決してしなかったのである。

自分の財布を持つようになってからは、本を自分で買えるようになった。
貴重な小遣いから本を買うのだから、とうぜん一冊一冊を大事にして読む。
読みほした本は、勉強机の横にある、まだ十分に空きのある本棚に並んでいく。

中学生になって、行動範囲は一気に広がった。
それまでの徒歩通学から、バスと電車を使っての通学になったためである。

私の通った私立の中高一貫校は、地下鉄の最寄り駅を降りて南北に貫く商店街を抜け、さらにダイエーの専門店街のビルを突き抜けたところにあった。

つまり毎日、商店街を往復して登下校するわけである。

その商店街には立派なアーケードがあり、毎日かなりの賑わいを見せていた。八百屋、魚屋、パン屋、日本茶専門店、文房具店、模型屋、そしてパチンコ店からマクドナルドにいたるまでが絶妙なバランスで併存していた。

そしてその頃、商店街の中にはいくつもの古本屋が点在していたのである。

私の読書人生において、この商店街と古本屋から受けた影響はかなり大きなものがあった。
古本屋といっても、東京・神保町にあるようないわゆる「古書店」めいたものではない。漫画からタレント写真集、そして音楽CDやドラマ・映画のDVDまで扱うような雑多な品揃えの店ばかりであった。
あのころは、そうした小「BOOKOFF」的なさまざまなジャンルを扱う個人経営の古本屋がいくつも街中にあったのである。

なんといったって、そんな古本屋の店先には必ずと言っていいほど文庫本100円ゾーンの棚がある。

そこは宝の山であった。

格安の100円ゾーンであるにもかかわらず、そこには読んで楽しい文庫本が溢れていた。
小学生のころから慣れ親しんでいた星新一のショートショート集、そして椎名誠や原田宗典、中島らもあたりのライトでポップなエッセイが、文学の入り口になった。

そしてそんな古本屋で宮本輝に出会い、沢木耕太郎に出会った。この頃は五木寛之や辻仁成もお気に入りの作家の一人だった。
今のように、わざわざ「本を読もう」と思い立たなくたって、この頃はどんどんと本を読めた。
私の文学観を決定づけるような出会いは、この雑多な商店街と古本屋にあったのである。

しかし現在、Googleマップでその商店街のあるゾーンに「古本屋」と検索をかけてみてもまったくヒットしない。
おそらくは、そうした小さな書店はこの20年のあいだにBOOKOFFのような大型中古ショップに駆逐され、さらにはここ数年で大きな店も折からの出版不況により姿を消したのだろう。
寂しいことに、私の愛した古本屋文化はこの街から無くなってしまった。


一方で、この街の駅前の小さな新刊書店は辛うじて生き残っている。おそらく教科書の卸売などの事業が下支えしているのだろうが、これはとにかく喜ばしいことである。

最初の“積ん読”


サン=テグジュペリ『夜間飛行』(読めてない)


さて、ここからはいよいよ“積ん読”の話である。

意外かもしれないが、私が自分で買った本のなかで最初に読み通せなかったのはサン=テグジュペリの『夜間飛行』だった。多分15,6歳のころだった。


確か当時「新潮文庫の100冊」に入っていたのだと思う。とすれば、新刊本として買ったはずだが。
この『夜間飛行』に興味を持ったきっかけは、宮崎駿が若き日に夢中になって読み、それが彼の飛行機、飛空艇好きにつながったと聞いたからだった。
ジブリ作品には、登場キャラクターたちが空を飛ぶシーンが数多く出て来る。その想像力の源泉となった宮崎駿の愛読本である。面白くないはずがない。

だが、私にはからきしダメであった。
全然、文章が頭に入ってこない。
それまでどんなにつまらないと思った作品でも、何とか紙面の上を目を滑らすようにして読み通していたのに、『夜間飛行』はそれさえもできなかった。そうして私は『夜間飛行』をいつのまにか放擲していたのである。

だから私の積ん読第1号はサン=テグジュペリ『夜間飛行』だということになる。

そういえば、私は同じサン=テグジュペリの『星の王子さま』も読めていない。彼との相性がそもそも悪いのかもしれない。

一度“積ん読”をしてしまうと、買ったはいいものの未読のまま残っている作品が、出るわ出るわ、私のそれからの読書人生は、積ん読人生と言ってもいいくらいだ。

志賀直哉『暗夜行路』(読めてない)


中でも忘れられないのは志賀直哉の『暗夜行路』。これまた厚めの新潮文庫である。まったく進んでいかないストーリー展開に飽き飽きし、なんとか前半部を終えたところでギブアップ。


とにかく退屈なことで有名なこの作品。
なるほど、「自然主義」を実践すればこうなるだろうよ。
『暗夜行路』は後半部になるとストーリーが動き出すらしいが、私は評価の高い志賀直哉の短編作品もあまりピンと来ない。「小説の神様」とは、いったい誰が呼んだのだろうか、と今でも訝しく思っている。

今でも実家の本棚にあるはずの『暗夜行路』、多分一生通読することはないだろうなあ。


ドストエフスキー『罪と罰』(読めた)


一方で、なんとか踏ん張って読み通したものの中にはドストエフスキーの『罪と罰』があった。

新潮文庫では、上下2巻。ドストエフスキーの長篇の中では比較的短いものなのだが、10代の私にとっては難事業であった。

別にロシア文学に興味を持って、とかという真っ当な理由ではない。
当時『罪と罰』を手に取ったのは、この本が『こち亀』で言及されていたからである。
難解で長大な小説の代名詞として挙げられる『罪と罰』がいったいどんなものかと思って、読んでみたのである。

(左)89巻 活字V.S.漫画論争!の巻
(右)98巻 電脳ラブストーリーの巻


19世紀中葉、白夜のペテルブルクはなかなか日本の中学生にイメージできる世界ではない。さらにロシア人特有のバカに長い名前、そしてときに呼び名が愛称に変わるというややこしさに苦しめられながらも、「斜め読み」にはならなかったと思う。

ラスコーリニコフが意図しない殺人を犯したことによる自責の念も理解したし、なんと言ったって判決を受けてシベリアへ流罪となり、ソーニャとともに生きていこうと希望を抱くラストシーンまではっきり覚えている。

長篇の書物は、それが長ければ長いだけ、読み通したときに達成感がある。
読書好きの方ならばわかってもらえると思うが、この読了感は、やはり10代20代の若い時の方が大きい。

中学生の時分に『罪と罰』を読み通したという経験は、その後大きな自信になったのである。


トマス・ハリス『羊たちの沈黙』(読めた)


この頃に読んだ海外小説で、純粋に一番面白かったのは、トマス・ハリスの『羊たちの沈黙』かもしれない。

海外小説を読むことの難しさは、日ごろ生きている世界とは全く違った世界を翻訳されたテクストの中から、自分でイメージを立ち上げていかなければならない、というところにある。
その点、事件が起こり、その解決に向かってストーリーが進展するサスペンス小説は海外小説のなかでも比較的読みやすい(SF小説もおおむね同様である)。


映画『羊たちの沈黙』は1991年の公開。アカデミー主要5部門を独占し、ハンニバル・レクターを演じたアンソニー・ホプキンスが主演男優賞を、FBI実習生クラリス・スターリングを演じたジョディ・フォスターが主演女優賞を受賞し、映画は大ヒットした。その当時に原作小説もよく売れたのだろう。21世紀初頭の古本屋にはこの本がよく棚に並んでいた。

確か私は『羊たちの沈黙』の小説を読み、映画を観て、それから『ハンニバル』の小説を読んだ。
だから私の『ハンニバル』は、引き続きジョディ・フォスターがクラリス・スターリングを演じていたのである。

ジュリアン・ムーアも素晴らしい女優なのだが、ジョディ・フォスターがクラリスを続演してくれたこの読書体験は、とてもラッキーだったと思う。

トマス・ハリスは非常に寡作な作家である。50年の作家生活でわずか6作しか発表していないが、いずれも優れたものだ。ここでは、ハヤカワ文庫から出版されている『レッド・ドラゴン』を推したい。

おわりに


思いつくままに忘れえぬ本を挙げていったが、なぜだかすべて新潮文庫になってしまった。

自ら紹介する本というのは、大体「面白い」と思っているから話題に出すのであるが、今回は本に対する不満を綴るような形になってしまった。
サン=テグジュペリ、志賀直哉の愛読者の方、ごめんなさい。

さて、タイトル回収をしよう。

私の“積ん読”第1号はサン=テグジュペリ『夜間飛行』です。あなたの“積ん読”第1号は何ですか?



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