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言いづらいことを本音と呼んでいるだけ


2024年10月20日(日)朝の6:00になりました。

これまでにあなたがついた嘘なんて、どうでもいいよというような海。

どうも、高倉大希です。




言えないことは、書く。

SNSの発達により、書くことに対するこのようなイメージが強くなりました。


サブ垢だとか、裏垢だとか。

いわゆる本垢では書けないようなことが、その人の本音として扱われます。


書いていることが本当で、言っていることは嘘。

このような二元論を耳にするたびに、いつも極端だよなと思います。


人間は、誰かとの関係の中で、その人のための分人を常に生み出している。お互いにです。相手の中には、あなたのための分人が生じる。一対のセットとして、言葉や感情のやりとりをしている。個性というのは、だから、唯一普遍の核のようなものじゃないんです。

平野啓一郎(2015)『空白を満たしなさい(下)』講談社


対話は、相手がいて成り立ちます。

そりゃあ、人によって言いづらいことも出てきます。


べつに、すべてを言うことが最適なわけでもありません。

前提が異なる者どうし、すり合わせていくことが大切です。


本当だとか嘘だとか、もはやそういう話ではありません。

わかり合えないことから、出発するのが対話です。


そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。

ドミニク・チェン(2022)「未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために」新潮社


一方で書くことは、相手がいなくても成り立ちます。

誰かとすり合わせなくたって、書くことはできるわけです。


だから、冒頭に述べたようなイメージが強まります。

こんなことを思っていたのかと、読み手は驚きを感じます。


冷静に考えれば、そりゃそうです。

読み手とのすり合わせを経て、書かれたわけではないのです。


自分の言葉が相手に理解されているかどうかについて鋭敏な感覚をもち、理解されていないことを嫌がらずに謙虚に受け止め、理解してもらうにはどうすればよいかを本気で考える。何度も何度も、そんな経験を繰り返さなければならない。

野矢茂樹(2018)「大人のための国語ゼミ」筑摩書房


くり返しになりますが、本当だとか嘘だとかそういう話ではありません。

相手とのすり合わせの中だと言いづらいことを、本音と呼んでいるだけです。


大抵の文章は、あなたのために書かれたわけではありません。

その文章が書かれる過程に、あなたはいません。


結局は、好き嫌い。

もしくは、あなたにとって都合がよいかどうかです。






サポートしたあなたには幸せが訪れます。