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休み時間のせいで、勉強しなければならなくなった
2023年9月11日(月)朝の6:00になりました。
元日に毎朝投稿をはじめて、今日でちょうど254日が経過しました。
どうも、高倉大希です。
名前は、ほかのものとの差異によって付けられます。
リンゴとバナナは差異のあるものだから、それぞれにちがう名前が付けられます。
リンゴとバナナに差異がないのであれば、わざわざ名前を付ける必要はありません。
正確に言うならば、そもそも差異がないものには名前を付けることができません。
わたしたちは、この世に生まれて間もなく名前を授かります。
名前を授かった瞬間から、ほかとは異なるものとして存在することになるのです。
トカゲのグループにウサギを入れて「個性的ですね」とは表現しないが、ウサギの毛の色が多岐にわたれば「それぞれ個性がありますね」という。同じ生物種だからだ。だから違いよりも共通点の方が多いグループの中の差異を取り出し、それを個性と呼んでいる。
名付けによって、分断が生じます。
国語と算数のように、教科ごとに異なる名前が付けられることによって、それぞれがべつのものになってしまいます。
休み時間が設定されることによって、それ以外の時間が休まない時間=我慢して勉強する時間になってしまうのとおなじです。
極端な言い方をすれば、勉強がだれかから強いられるものになってしまったのは、休み時間が生まれたせいです。
休み時間なんてものができたせいで、休むことと勉強することがべつのものになってしまったのです。
その休み時間には遊んでよい、というきまりをつくってしまったことに端を発している。それ以来、学ぶ(勉強する)ときは遊ばないし、遊ぶ時は、勉強から解放される、ということで、遊びと学びは真っ二つにわかれてしまった。
このような事例は、生活の中に山のようにあふれています。
飲みニケーションのせいで、素面の状態が本音で語れない場になりました。
オンライン会議ツールのせいで、オフラインが話す必要のない場になりました。
望んでそうなったのかは、またべつの話です。
わたしたちが直面する状況は、分断によって生まれているという話です。
わたしたちは不合理なだけでなく、「予想どおりに不合理」だ。つまり、不合理性はいつも同じように起こり、何度も繰り返される。
分断されたものを、つなぎ合わせて。
つなぎ合わせたものを、分断して。
このくり返しで、世の中は回っています。
そしておそらく目の前に広がる現代は、つなぎ合わせる時代です。
分断によって失われてしまったものを、つなぎ合わせなければなりません。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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