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綺麗で怪しい言葉
2024年9月12日(木)朝の6:00になりました。
美しいものは、巧妙にカモフラージュされている。
どうも、高倉大希です。
主体性とか、多様性とか、個性とか。
自分らしさとか、居場所とか。
あなたはあなたのままでいい、とか。
みんなちがってみんないい、とか。
綺麗で耳馴染みのよい言葉を聞くたびに、すこし引いてしまいます。
一体全体それは何を意味しているんだいと、尋ねたくなってしまうのです。
たとえばデジタルトランスフォーメーション(DX:ITによる変革)とかSDGs(持続可能な開発目標)とか言われて、実際は何も知らないのに、なんとなくわかったような気になってしまう。あるいは「それはフェイクニュースだ」と言うことで議論に勝った気になり、その先は何も考えない。考える道具として役立つ言葉が、思考停止の道具になってしまっています。
本当に尋ねると、怪訝そうな顔で睨まれます。
そして、もっとよくわからないぼんやりとした回答が返ってきます。
きっと彼らは、上記のような言葉を疑ったことがありません。
よいものだと信じ切っているので、それ以上考えようとしないわけです。
しかもまわりの人たちも、迂闊に「いいね」と同調します。
こうして、綺麗で怪しい言葉がひとり歩きをはじめます。
「みんな違っていい」は対立を覚悟することであって、「心をひとつに」はそれとは真逆の考え方です。繰り返しになりますが、多様性を心の教育で解決できると信じている教育は乱暴すぎます。共通の目的を探しだす、粘り強い対話の力こそ必要だと思っています。
教育の分野で仕事をしていると、このような言葉に嫌というほど出会います。
さっき聞いたのに、また聞いた。
これが、日常茶飯事です。
もちろんその意味を尋ねると、怪訝そうな顔で睨まれます。
目の前には、綺麗じゃない現実が広がっているのに。
綺麗で怪しい言葉を、手放そうとはしないのです。
世の中には名前のないものがたくさんある。私たちがちゃんと理解していて扱うこともできるのに、直接は表現できないとの、人間の言語や狭い概念の中ではとらえきれないものが存在する。私たちの身の回りにある重大なものは、たいてい言葉でとらえづらい。実のところ、重大であればあるほど、言葉で理解しづらくなっていくのだ。
言ってしまえば、考えたくないということなのだろうと思います。
綺麗で怪しい言葉は、正解っぽく見えます。
それを手放してしまったら、次なる正解を探さなければなりません。
めんどくさくて、しんどくて、とてもやってられません。
目の前には、綺麗じゃない現実が広がっているのに。
綺麗で怪しい言葉を、手放そうとはしないのです。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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