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綺麗で怪しい言葉


2024年9月12日(木)朝の6:00になりました。

美しいものは、巧妙にカモフラージュされている。

どうも、高倉大希です。




主体性とか、多様性とか、個性とか。

自分らしさとか、居場所とか。


あなたはあなたのままでいい、とか。

みんなちがってみんないい、とか。


綺麗で耳馴染みのよい言葉を聞くたびに、すこし引いてしまいます。

一体全体それは何を意味しているんだいと、尋ねたくなってしまうのです。


たとえばデジタルトランスフォーメーション(DX:ITによる変革)とかSDGs(持続可能な開発目標)とか言われて、実際は何も知らないのに、なんとなくわかったような気になってしまう。あるいは「それはフェイクニュースだ」と言うことで議論に勝った気になり、その先は何も考えない。考える道具として役立つ言葉が、思考停止の道具になってしまっています。

養老孟司(2023)「ものがわかるということ」祥伝社


本当に尋ねると、怪訝そうな顔で睨まれます。

そして、もっとよくわからないぼんやりとした回答が返ってきます。


きっと彼らは、上記のような言葉を疑ったことがありません。

よいものだと信じ切っているので、それ以上考えようとしないわけです。


しかもまわりの人たちも、迂闊に「いいね」と同調します。

こうして、綺麗で怪しい言葉がひとり歩きをはじめます。


「みんな違っていい」は対立を覚悟することであって、「心をひとつに」はそれとは真逆の考え方です。繰り返しになりますが、多様性を心の教育で解決できると信じている教育は乱暴すぎます。共通の目的を探しだす、粘り強い対話の力こそ必要だと思っています。

苫野一徳、工藤勇一(2022)「子どもたちに民主主義を教えよう」あさま社


教育の分野で仕事をしていると、このような言葉に嫌というほど出会います。

さっき聞いたのに、また聞いた。


これが、日常茶飯事です。

もちろんその意味を尋ねると、怪訝そうな顔で睨まれます。


目の前には、綺麗じゃない現実が広がっているのに。

綺麗で怪しい言葉を、手放そうとはしないのです。


世の中には名前のないものがたくさんある。私たちがちゃんと理解していて扱うこともできるのに、直接は表現できないとの、人間の言語や狭い概念の中ではとらえきれないものが存在する。私たちの身の回りにある重大なものは、たいてい言葉でとらえづらい。実のところ、重大であればあるほど、言葉で理解しづらくなっていくのだ。

ナシーム・ニコラス・タレブ(2017)「反脆弱性 下」ダイヤモンド社


言ってしまえば、考えたくないということなのだろうと思います。

綺麗で怪しい言葉は、正解っぽく見えます。


それを手放してしまったら、次なる正解を探さなければなりません。

めんどくさくて、しんどくて、とてもやってられません。


目の前には、綺麗じゃない現実が広がっているのに。

綺麗で怪しい言葉を、手放そうとはしないのです。






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