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自分の文章を自分は読みたいと思うのか
2025年2月8日(土)朝の6:00になりました。
今日も今日とて、人に会いに行きます。
どうも、高倉大希です。
校長先生の話を、つまらないなと思いながら聞いている。
そんな、小学生でした。
校長先生自身は、その話を本当におもしろいと思っているのだろうか。
校長先生が子どもだったころは、自分と同じように思っていなかったのだろうか。
これらは決して、嫌味ではありません。
純粋に、そう思っていたのです。
あるとき、気がついたんですよ。生徒たちは校則の理不尽さについて怒ってはいるけれど、結局、それは先生が、黒い靴下はいいが、白い靴下はダメといって、問題視したからこそ、そこに行き着いたのではないかと。つまり、先生によって“つくられた”怒りなんじゃないかって。
わりと多くの人たちが、自分と同じようにつまらないと思って聞いていた。
でも、いざ自分が話し手になるとそれを再現してしまう。
大人になってから、気がついたことのひとつです。
行為者になったら、被行為者だったころの気持ちを見事に忘れてしまうのです。
話すことに、限った事象ではありません。
文章作成も、販売促進も、集客も、マーケティングも、結局はぜんぶ同じです。
買い手にとっては当たり前のことだが、ほとんどの人は売り手になった瞬間に忘れてしまう。マーケティングに特殊な理論は存在しない。あなたが買い手であるときにはすべて知っていることであり、その当たり前のことを体系化したのが「マーケティング」なのだ。
職業柄、先生を伴走する機会がよくあります。
授業はある種、いちばんわかりやすい形態のひとつです。
学習者がすでにわかり切っていることを、長々と解説しようとしてしまったり。
計画どおりに進めることが、目的化してしまったり。
学生時代は、あれほどつまらないと思いながら授業を受けていたはずなのに。
いざ先生になってみると、同じようにつまらない授業をくり返してしまうのです。
勘違いされがちなところは、(多くの教師が思う様に)まず一番はじめに概念や関連知識を教えてしまってから、そのあとにプロジェクトをスタートすればよい、と考えていることですが、そうではありません。ほとんどの場合、生徒自身も私も最終的に何をつかむのか、またプロジェクトの出来上がりも分かっていません。
自分の授業を、自分は受けたいと思うのか。
自分の文章を、自分は読みたいと思うのか。
自分が売るものを、自分は買いたいと思うのか。
自分が企画するものを、自分はおもしろいと思うのか。
結局は、そのように考えていくしかありません。
あとは自分が間違っている可能性を考慮して、感覚を研ぎ澄ませていくのみです。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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