見出し画像

自分の文章を自分は読みたいと思うのか


2025年2月8日(土)朝の6:00になりました。

今日も今日とて、人に会いに行きます。

どうも、高倉大希です。




校長先生の話を、つまらないなと思いながら聞いている。

そんな、小学生でした。


校長先生自身は、その話を本当におもしろいと思っているのだろうか。

校長先生が子どもだったころは、自分と同じように思っていなかったのだろうか。


これらは決して、嫌味ではありません。

純粋に、そう思っていたのです。


あるとき、気がついたんですよ。生徒たちは校則の理不尽さについて怒ってはいるけれど、結局、それは先生が、黒い靴下はいいが、白い靴下はダメといって、問題視したからこそ、そこに行き着いたのではないかと。つまり、先生によって“つくられた”怒りなんじゃないかって。

工藤勇一、鴻上尚史(2022)「学校ってなんだ!日本の教育はなぜ息苦しいのか」講談社


わりと多くの人たちが、自分と同じようにつまらないと思って聞いていた。

でも、いざ自分が話し手になるとそれを再現してしまう。


大人になってから、気がついたことのひとつです。

行為者になったら、被行為者だったころの気持ちを見事に忘れてしまうのです。


話すことに、限った事象ではありません。

文章作成も、販売促進も、集客も、マーケティングも、結局はぜんぶ同じです。


買い手にとっては当たり前のことだが、ほとんどの人は売り手になった瞬間に忘れてしまう。マーケティングに特殊な理論は存在しない。あなたが買い手であるときにはすべて知っていることであり、その当たり前のことを体系化したのが「マーケティング」なのだ。

佐藤義典(2007)「ドリルを売るには穴を売れ」青春出版社


職業柄、先生を伴走する機会がよくあります。

授業はある種、いちばんわかりやすい形態のひとつです。


学習者がすでにわかり切っていることを、長々と解説しようとしてしまったり。

計画どおりに進めることが、目的化してしまったり。


学生時代は、あれほどつまらないと思いながら授業を受けていたはずなのに。

いざ先生になってみると、同じようにつまらない授業をくり返してしまうのです。


勘違いされがちなところは、(多くの教師が思う様に)まず一番はじめに概念や関連知識を教えてしまってから、そのあとにプロジェクトをスタートすればよい、と考えていることですが、そうではありません。ほとんどの場合、生徒自身も私も最終的に何をつかむのか、またプロジェクトの出来上がりも分かっていません。

藤原さと(2020)『「探究」する学びをつくる』平凡社


自分の授業を、自分は受けたいと思うのか。

自分の文章を、自分は読みたいと思うのか。


自分が売るものを、自分は買いたいと思うのか。

自分が企画するものを、自分はおもしろいと思うのか。


結局は、そのように考えていくしかありません。

あとは自分が間違っている可能性を考慮して、感覚を研ぎ澄ませていくのみです。






いいなと思ったら応援しよう!

高倉大希
サポートしたあなたには幸せが訪れます。