改めまして、自己紹介。
まず初めに……。
私は現在高校3年生で、春から大学生になります。進学先として東京の通信制大学を志望していますが、年に2-4回、スクーリングで東京に行く必要があります。
親からは「学費は出すが交通費は自分で稼げ」と言われています。
関西に住んでいるので、往復の新幹線代を稼ぐため、バイトをすることも考えましたが、働ける状態ではないので、noteで有料記事を書くことにしました。
地元の関西では、私の興味のある分野を学べる大学が少なく、夢を諦めたくないので、応援してくださる方は、購入していただけると有難いです。
今まで、ただ自己満足の日記を書くようにnoteを書いていましたが、これからは心機一転、より読み手を意識して、かつ私の感情を正確に書くということに挑戦してみようかな、と思って改めて自己紹介しようと思います。
プロフィール欄も充実させたので是非ご覧ください。
今回はかなり長文になってしまうので、目次を見ながら気になるところだけ読んでいただければと思います。
私がどんな人なのか気になる方や、フォローするか迷うなぁ、という方には是非読んでいただきたいです。
現在の私について
私は関西在住の通信制高校3年生です。うつ病、不安障害、摂食障害を持っています。
3ヶ月前は閉鎖病棟にいました。今は退院して、学校に通いながら受験生として勉強に励んでいます。
小学校受験のきっかけ
幼稚園生の頃、電車で乗り合わせた私立小学校の制服に一目惚れし、母親に「制服着て学校に行きたい」と言ったことがきっかけで、小学校受験することになりました。受験には成功しましたが、受験勉強を始めるのがかなり遅く、周りから遅れていたので両親も必死で、その頃から少しづつ家庭が荒れるようになりました。
小学生の間は家庭内では暴言暴力が絶えませんでした。成績が悪いと親の機嫌を損ねるので、必死に勉強しましたが、周りは出来のいい人たちばかりで、努力だけでは埋まらないものがあるのだと感じていました。
中学への内部進学
中学への内部進学では、3クラスあるうちの下位1クラス分の人たちが落とされるシステムでした。
小学校6年生の夏には1日10時間勉強をして、何とか内部進学枠内に滑り込み、無事附属中学に進学しましたが、中学入学時点で私はすでにうつ状態にあり、希死念慮もこの頃初めて経験しました。
中学1年 陸上部に入部
中学1年の頃はクラスメイトに恵まれ、それなりに楽しい学校生活を送っていて、部活は陸上部に入部しました。陸上に興味があったわけではなくて、先輩の雰囲気が良かったことと、入部する1年生に友達が多かったのが決め手になりました。ただ、この陸上部は私の中学ではトップ3に入るほどスパルタで、休みは週1、絶対的な上下関係、部活後には自宅で振り返りノートを書かなければいけないなど、様々なルールが存在していて、それを知らずに入った私たち1年生は入部後、勉強との両立に苦しむことになります。。。
中学2年 少しづつ異変が……
私は文武両道ができるほど器用な性格ではなかったので、どちらも中途半端なまま中学2年になりました。夏以降は3年生が引退し、2年生が部活をまとめなければいけなくなり、部内でトラブルが多発し、部活停止に追い込まれたときもありました。勉強面でも、夏になると少しづつ志望校を考え始め、オープンキャンパスに行ったりもしていました。この頃は、私の住んでいる地域でトップ争いをするような高校を第1志望としていました。
異変が起きたのはちょうどこの頃、夏でした。
私は2年でクラスの学級委員長をしていて、人前で話したりする機会が沢山ありました。前期の委員長としての仕事ももうすぐ終わりに差し掛かった頃、急に人前に立つのに恐怖を感じるようになりました。足が震え、声が出せず、上手くクラスを仕切れなくなり、落ち込むことが増えました。
保健室にもよく行くようになり、担任の先生からスクールカウンセリングを勧められました。私はカウンセラーさんに紹介された精神科に行くことになりました。
14歳精神科初診
初診は2月でした。母親と一緒に診察室に入り、先生と話をして、「軽いうつ病ですね」と言われました。このときのことは忘れられず、今でもハッキリ思い出せます。母親が私より先に泣いてしまったので、私も泣いていたけど何とか声を出さずに耐えて、診察室を出たあとトイレでひとりで泣きました。あの涙はきっと、「助けてほしい」という涙だったと今では思います。
ここから不登校になり、保健室登校をするようになるまでの記憶がほとんどありません。ただ覚えているのは、電車通学の途中で、「いつここに飛び込もうか」「飛び込んだら楽になれるだろうか」と真剣に悩み、電車の中でパニックを起こしてトイレに駆け込み、学校には行かず、泣きながら家に帰るということを繰り返した記憶があります。
中学3年 不登校から保健室登校へ
そんなこんなで、気づいたら中学3年になっていて、部活も引退し、夏休みが明けた頃、私の中で限界が来ました。だんだん遅刻欠席が増え、塾も休みがちになり、気づけば不登校でした。不登校になった時、担任の先生に言われた印象的な言葉が、「まさか翠ちゃんが、と思った」と言われたことでした。私は何の問題も抱えていないように見えていたと言っていました。でも、担任の先生は最大限私のサポートをしてくれました。保健室登校や定期テストの別室受験を認めてくれて、秋頃には私は教室へは行かずに午前中だけ保健室登校をしてお昼頃帰るという生活になっていました。夏頃から、本格的に日記を書いていて、読み返すと「消えたい」「死にたい」「楽になりたい」そんな言葉で埋め尽くされていました。
とは言っても受験生で、受験校を決めなければいけず、そのとき私の中では既に「通信制高校に進学する」という選択肢がありました。でも、母親に猛反対され、「通信は馬鹿な子が行くところ」と言われたことに怒りを覚え、結局地元の公立全日制高校を受験しました。ちなみに、中学2年の頃第1志望としていた高校は受験しませんでした。そこよりも偏差値を10ほど下げた、家からバスで10分くらいの高校に入学することになります。
高校1年 地元の公立全日制高校に入学
高校では、人間関係に恵まれませんでした。地元の公立高校なので、地元の中学校から進学してくる人が多くて、入学式のときには既に人間関係が出来上がっていました。長い間電車通学していた私はその中に入っていけず、孤立してしまいました。通えたのは3ヶ月くらいで、林間学校には参加したものの、体育祭、文化祭には参加できませんでした。2学期になって、担任から「このままでは進級できない」と連絡が来ました。
通信制高校との出会い
そこから通信制高校の合同説明会に行き、今の高校と出会います。私にとっては、全日制高校を退学して通信制高校に転入することは分かりきっていたことでした。ですが、母親はギリギリまで全日制高校を諦めきれず、「進級できない」という話を聞いてようやく、「通信制高校に行くしかないね」となったような感じでした。
転入後 閉鎖病棟入院まで
高校1年の12月に通信制高校に入ってからはかなり平和で落ち着いた生活をしていました。週1の登校をしながら英検対策の勉強を家でやる、といった感じでした。休学するきっかけになったのは、摂食障害でした。高校2年の秋頃、ダイエットがエスカレートして摂食障害になり、栄養不足からの体調不良やうつ状態が増え、学校も苦痛になってしまい、主治医に「学校は休学するべきだ」と言われて2月頃から休学していました。休学しても、私の病気は悪くなっていくばかりで、充電コードで首を絞めることから始まり、遂には「死にたい」という一心で首吊りで自殺未遂を繰り返し、救急科のある大きな精神科病院の閉鎖病棟に入院することになりました。
入院に関してはまた別の記事で詳しく書いているので興味があれば是非読んでください。
今は退院して3ヶ月くらい経って、学校も復学して、ぼちぼち生きています。
ざっと、私の今までの経緯はこんな感じです。
だいぶ長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださりありがとうございます🙇🏻♀️ ̖́-
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