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なぜに書くのかがよくわからなくなっています、noteも人生なのだと思います、私はきっと、人生に迷っているのだと思います。
先ほど、つぶやきにも書きましたが、思ったように書けなくなりました、読めなくなりました。
頭の働きが鈍くなっているからです。
一生懸命に書きたい、読みたい、と思っているのに、私の頭は、1行を書くのに、1行を理解するのに、今までの何倍か、時間を要するようになってきているように感じられます。
しかし、毎度毎度、今までの何倍もの時間を要して、書いたり読んだりするわけにもいきませんので、結局は、満足のいかない書き方・読み方になってしまうのです。
それが、私の中に、焦燥感を膨らませ続けている要因のように感じられます。
焦る時期ではないことは、よくわかっているのです。
しかし、頭でわかることと、心でもわかることは、違うのだなぁと、日々、感じます。
悲しみや喪失感は、今までの自分と同じ状態ではなくなることを、表しているのだと思います。
今までの自分と同じ状態ではなくなる、これは、過去に経験した悲しみや喪失感によるものであるならば、その対処も少しはできたのでしょうが、いかんせん、今回の悲しみと喪失感は、初めての経験です。
私は、今、この経験により、自分自身と、自分の人生と、きっと、向かい合っているのでしょう。
だから、私は思うように書けなくなり、読めなくなってしまったのだと思います。
noteというところは、書く・読む場所なので、書く・読むということが上手く機能しなくなると、置いてきぼりになってしまったような気分になります。(あっ、これはあくまでも、私の感覚です)
どうしよう、どうしよう、どんな風に書いていったらいいかわからない、どんな風に読んでいったらいいかわからない、そんな感覚になっています。
考えすぎなのはわかっています、しかし、自分の書くスタイル、読むスタイルが、明確でないことが、今の私には、何かしらの不安につながっているのだと感じます。
自由に書くということは、やはり責任が伴いますからね。
書く内容によっては、誤解をされたり、不快感を招いたり、そこまでいかなくとも、私の記事への興味・関心を削ぐことにつながることもあります。
それだけ、書くということは、デリケートな作業なのだと感じます。
私は、常に優柔不断な人間なのだと思います。
noteでの自身の在り方、人生の在り方が、定まらない人間なのです。
何かを誓っても、私の心は、日々、揺れ続けているのです。
揺れが、たまにならいいのですけど、私は、揺れている状態が日常になっている感じがします。
こんな状態で、書いていってもいいのでしょうか?生きていってもいいのでしょうか?
結局は、書きながら考えるべきなのか?書かずに休みながら考えるべきなのか?それすらもわからないでいます。
一体、何の為に書くのか?書きたいから書く、これが正論なのでしょうがね。