お客様インタビュー・梅川雅己さん(寿司「梅川」店主)その1
東京・九品仏で寿司屋を営む梅川雅己(まさみ)さんがご来店。
お皿を洗いながら耳を澄ましていると、お客様との楽しい会話が聞こえてきました。
マグロ漁船に乗ったお寿司屋さん
後悔知らずの倍速人生
お隣
マグロ船に乗っていた? ということは漁師さん?
梅川
いえ、寿司屋です。若いころに一度遠洋マグロ漁船に乗ったことがあるんです。
お隣
それは、やっぱり魚について知りたくて?
梅川
あ、そういう理由ではないですね。
もともと寿司屋になるつもりもなくて、夜学の短大に行っていたんです。そこはスペイン語とかポルトガル語などの外国語に力を入れていて、僕は中国語をとることにしました。ですがこれが難しくて(笑)再履修になったりで苦労したんですけど、四苦八苦したこともあって熱心な台湾人の先生と仲良くなった。
その先生に進路について話していた時
「中華のコックになりたい」
と言ったら
「それなら良い中華の店を紹介する」
と言ってくれたんです。
僕は高校の時から自分は組織に向いていない、サラリーマンはできないだろうと思って手に職をつけるつもりでいました。だから飲食店のアルバイトも数多く経験していた。
とにかく先生が就職先を紹介してくれる店に入る前に下地を作っておこうと思って、卒業前に別の中華の店にアルバイトに行くことにしました。でも当時はアルバイトニュースみたいな雑誌だけが頼りで今みたいに情報がない。店の前まで行ってみたら、なんだかチェーン店的な、あまり料理を勉強できる雰囲気じゃない。これはイメージが違うな…と思ってまたアルバイトニュースを見て、とりあえず料理ならいいやとたまたま目に止まった千駄ヶ谷の寿司屋に行ったんです。
偶然寿司の道に入るわけですが…、その店ですぐに社員になってほしいと言われて、結局卒業してからもそこにいることになります。
裏方でしたが揚げ物、煮物全部やらせてもらえて、すぐに仕込みは全て出来るようになっていました。出刃包丁も持ったことがないような素人でしたけど、一から教えてくれたんですね。
もちろんはじめは下働きというか、掃除、皿洗い、出前、なんでもやらされるんですけど、そればかりずっとやるわけではなかった。
お隣
普通はすごく時間がかかるといいますよね。最低3年は皿洗いとか…
梅川
近くに大きな会社があって忙しい店だったから、ということもあったかもしれませんが…、実は僕はずるがしこいところがあって(笑)、とにかく早くいろいろと覚えたいから、やりたい仕込みがあると嘘をつくんです。
調理場に仕込む食材を集めるんですが、例えば今日はタコを勉強したいと思ったら、タコを隠しちゃう(笑)。
先輩が
「タコが来てないなあ」
とか言うと、
「僕も見てないです」
なんて(笑)。
で、見様見真似でタコをやってみて、もちろん後で怒られますけど、大きな失敗をしなければ
「仕様がねえな」
ということになる。
そうやっているうちに、結構いろいろと任せてもらえるようになった。
最後は巻物もやらせてもらって、握りとか、カウンターに立つ以外はほとんど経験させてもらいました。
ところがその店がバブルの頃、1988年か89年でしたか、地上げにあって立ち退かなくていけなくなった。25年か30年くらい続いた店だったと思いますが、もう店をたたむとなって、
「梅川君、君はもうどこに行っても大丈夫だから、どっか他の寿司屋に面接に行って。営業中でも(面接に)行っていいから」(笑)
でもその時は寿司屋はもういいかな…という気持ちもあって、しばらくは六本木のクラブでボーイをしてお金を貯めていました。
そんな時、そういえば大学の先輩が飲みの席で
「俺の友達に、マグロ漁船に乗ったことがある奴がいる」
と言っていたのを思い出して、その人に電話してみた。そうしたら実際にマグロ船に乗っていた人と連絡をとってくれて、
「もし梅川くんが乗りたいなら、直接焼津の漁協に連絡したら?」
とアドバイスしてくれたんです。
それですぐに漁協に電話して、そうしたら漁協が船会社に連絡をとってくれた。船会社の専務さんが連絡をくれて
「東京の人はあまり船に乗らないし、だからすぐに乗せるわけにはいかないけど、どうしても乗りたいならとりあえず港で働いてみたら?
うちと取引のある船具屋を紹介するよ。そこでアルバイトすれば海のことや船のことを覚えられるから。それでも乗りたければ、その時考えましょう」
「分かりました!!」
と答えて、すぐに船具屋さんにアルバイトさせてほしいとお願いして、住んでいたアパートを引き払い、翌日着の身着のまま焼津に向かいました。
お隣
目まぐるし過ぎて…あの、そもそもどうしてお寿司屋さんなのに漁船に乗りたいんでしたっけ?
梅川
それね、お客様にもよく聞かれるんですよ。
「乗りたいから乗ったんです」
って答えるんですけど、まあ結局そうですよね(笑)。自分の意志で乗っている。当時友達にも「頭がおかしいんじゃないか?」って言われました。
実際のところは、あえて言葉にするなら
「苦労したかった」
からだと思います。
寿司職人をこのまま続けても、あまり刺激がない生活が続いていくだろう。先が予想できてしまう。
当時はバブルですから、普通に生活していてもお金は稼げた時代。もし漁船で何かあっても、また別の場所で働けばなんとかなる…と思えたのもあるかもしれません。
とにかく、このままだとみんなと同じような生き方になってしまう、何か違うことはないかな、というのが出発点でした。
候補は3つあったんです。自衛隊、佐川急便、そしてマグロ漁船。
当時から佐川急便は大変だけれどお金が貯まると言われていましたが、でも僕は稼ぎたいわけじゃない。自衛隊もね、訓練したいわけじゃない。
となるとマグロ船かな、一年は帰ってこれないというし、本当に未知の世界だし。
焼津に着くと、すぐに船具屋でいろいろと教えて貰いながら働きはじめました。
そこは船会社の人もしょっちゅう出入りする店なんですが、一月くらいしたら
「お前できそうだな、乗ってみるか?」
と。
で、船具屋さんで一月働いたとはいえ、まったく素人の状態で船に乗り込みました。
船具屋さんの仕事で「焼津ドック」という船の修理工場によく行きましたが、そこに第35福積丸があって、まさかそれに乗るとは…。
2週間後に出るというので、そこから準備がはじまります。
まずお世話になった船具屋さんに話しました。すると
「船に乗るのはやめて、うちで就職してくれないか?」
と言うんです。
「どうしても乗りたいなら一週間くらいで帰ってくるのがあるから、それでいいじゃないか?」
いやいや、それはね(笑)
「まぐろ船に乗りに来ましたから」
と断りました。その店にはマグロ船に乗るつもりで焼津に来たけれど、結局船具屋さんの社員になった人もいたんですね。そういう人もいるよ…と説得されましたが、断りました。
そうこうしているうちに集合がかかって、顔見世して、それから魚の餌を積んだり、個人的な荷物を積んだり、忙しくなります。
お隣
親御さんは心配したでしょう?
梅川
船に乗るかどうかの相談はせず、決まってから報告しました。
もともと高校を卒業するときに「出ていけ!」と言われて、「自由になれる!!」
とすごく嬉しく家を出ていたので(笑)。
それでも出航の一週間前に一度東京に帰りましたが、出航日の見送りには来てもらいませんでした。
出航するときは焼津でお世話になった人達が「梅川くーん」と見送りに来てくれたそうなんですけど、僕はその時にチェーンロッカーという船のおもりを上げる係で、ずっと倉庫の中だったんです。
港が見えなくなってからデッキに出ました。
見送りの人達の顔は見えなかったけれど、短期間だけれどすごく良くしてもらって、有難かったですね。
船具屋さんのパートのおばさんが手紙をくれていたので、出航してから読んでみました。
「この航海は、あなたの人生にとって良い試練となるでしょう」
それだけなんですけど…なんだかグサッっときました。
船に乗る前に、これから同じ福積丸に乗る人が
「今だったら間に合う、乗ったら帰れないから。俺も散々苦労して後悔したから」
と言ってくれたのも思い出しました。その人は確か福島の人で、水産高校を卒ていたと思います。
「船は暴力がすごい。やめるなら今だ」
と言ってくれた。
その時は「いやいや、僕は大丈夫です」と乗りこみましたが、その言葉の本当の意味をそれから知ることになります。
(つづく)