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名言で勝手にエッセイ 【11】

※ 2024年7月25日、若干の加除訂正をしました。


本日の名言


ようこそ。このエッセイを読んでくださるご縁に感謝します。

今回は、昔、日本で、構造主義に打破(?)されるまで実存主義の旗手として人気を博したジャン=ポール・サルトルから名言を借りてみます。彼はフランス人なので、原文はフランス語です。

しかし、これまでのエッセイを読んでくださった方はご存知と思いますが、僕が一応説明を付けながら訳せるのは英語なので、英語に直されたものと対比しながらつらつらとエッセイを書いていきます。



原文引用

L’homme est condamné à être libre.
(Man is condemned to be free.)

ジャン=ポール・サルトル

試訳…したいが、定訳が格好良いのでいいか


人間は、自由の刑に処せられている。


疑問


まずもって、一発目から、矛盾を感じますよね。

自由なのに、なぜ刑罰に処せられているなんていうのか?
自由は監獄だとでも?

その理由自体は、哲学の先生がもろもろ解説してくれていますが、かいつまで再度書けば、彼が無神論をベースにして、人間の実存を礼賛した(と同時に呪った?)人だからかもしれません。

サルトルには批判も多いそうですが、キリスト教道徳に縛られる人たちを解放しようとしたという意味で、ニーチェと近い役割を果たしたのかもしれません。

話法は全然違うけど。
なんせ、ニーチェはダイレクトすぎで、「神は死んだ」ですから…。

有名な、「実存は本質に先立つ」というのは、哲学用語でありつつ、宗教用語でもあるような言葉です。

極東の島国に住んでいる僕らは、多くが神道や仏教、儒教や道教の影響下で形成された文化に生きています。

が、キリシタン大名とか隠れ切支丹(今はスパイムービーみたいに、潜伏キリシタンなんていつの間にか呼称が変わってるみたいですが…)の昔から、クリスチャンになった人も一部におられます。

その一部の人たちしか、真の意味ではサルトルの言葉がわからないかもしれないようなものです。

運命論とか決定論ってあるじゃないですか?
全て神のマスタープランがあって、それに沿っているんだと。

「本質」ってサルトルがいうのは、キリスト教道徳のタームなら、魂とか精霊とかそういったスピリチュアルで人間の内奥にあるもの、しかも神に書き込まれたもの(吹き込むでもなんでもよいが)というニュアンスで言っているそうです。

だから、ビジネス用語で「本質を見極めろ」というときの、物質世界でどうやって勝ち抜くかという文脈における「競争に勝てる本質」、そういう生臭いものとはちと違うかもしれません。

そういう神に書き込まれるソースコードみたいなものよりも先に人間の実存があるというのだから、空っぽですよね?出荷状態のパソコンやスマホみたいですが。いや、あれはOSまで入ってるか…。

サルトルは、それも自分で創れるが故に自由だ、そして責任も伴うというんですね。

そのような無神論的実存主義は自由の哲学というけれど、人格の形成から社会参画まで、神なき世界であるがゆえに、自分で価値を創造していけるのだといって当時の青年たちを鼓舞したそうなんですね。

不勉強な僕らは、神なき世界だと書くと、みんなが一様に堕落してそうだと想像しませんか?捉え方、正反対なんですよね…。

実際、アンガージュマン(英語だとエンゲージメントですかね?)といって、彼は象牙の塔に籠っている知識人を批判しながら、社会運動にも関与していました。

それは「神が居ないんだから、社会設計も自分たちでやらねば誰がやるんだ」という自分の哲学的帰結だからと思われます。風任せ、貴族任せ、財閥任せでいいのか?

考えると、決めてもらった方が楽なことまで、すべて自分で引責しながら創っていかないといけないというのは、怖いことです。

日本で昨今流行りの(?)、自分ではどうしようもないこと(例えば親ガチャという単語)まで自己責任だといって、敗戦やらバブル崩壊やらデフレ経済やら、国家や社会が共犯してきた責任を矮小化するムーブメントとは違って。

ユーリッヒ・フロムなんかは、この点を悲観的に見ていたようです。

全体主義というのは、「自由を史上初めて与えられた前世紀の人間が、自分だとあまりにも自分のことをわからないし、決められないし怖いから、一律に決めてくれちゃうボスを求めて自由を献上しちゃう」という心理なんだと分析してましたよね(自由からの逃走)。

ナチズムもファシズムも、虚無の世界で強力なリーダーシップを求めたら、ああいう粗暴な連中が台頭したわけです。

当時のドイツとイタリアと日独伊三国同盟を結んじゃった我が国に、そういう「自由からの逃走」をしたい思想性があったか(もともと大正デモクラシーが死んだあと昭和に軍部台頭という不可思議な国ですから…既に全体主義だったわけで逃走は済んでいる?)は、僕には未解決のミステリーです。

ミステリーの解決は、歴史家や思想家の総括(戦後70年を超過したのにまだ終わらないけど)に任せるので、ここではスキップします。

ところで、現在の街の自治などを例示に採ると、ベビーブーマーが若い時は、自警団(見回り等)+警察でなんとかしてきたわけです。

が、高齢化や少子化もあるし、巡回の担い手が居ない。「街頭監視カメラへの入れ替えで仕方ないか…」という妥協も、(ある種の)自由からの逃走かもしれませんね。

なんの自由?自治の自由の他、移動の自由がないですよね、通りすがる庶民全員が容疑者扱いになってしまって…。

便利ですけどね。そのうちディストピアムービーみたいに、ドローンが地の果てまで監視で追ってくるかも。それはないか。

別例。学生時代はあれだけ勉学に励み、肉体を鍛錬したのに、今や月に一冊も本を読まない社会人の一人になってしまったと嘆く人が居たら、サルトル風に言うと自由は責任と表裏一体なので、怠惰だと責められてしまうかもしれませんね。

野放図、あるいは自治の寡占独占(先ほどのカメラの話など)は、彼に言わせると自由ではないわけです…たぶん

だから、多忙な中でも、➀経営者は資金提供したりロビイングしたり(いずれも違法でないプロセスを経たもの)、②従業員も支持団体に属してみたり投票行動してみたり、色々社会参画≒アンガージュマンしないといけないわけです。自由であり続けるためにですね。

(これは政治の話になっていますが、芸術的な催しでも、スポーツイベントでも、社会福祉の団体設立でもお題はなんでもいいはずです。)

あれ、神の軛から逃れて今や自由なのに、別の義務付けを帯びてきますね。
でも、社会や国家が向上するにはそうせざるをえない…。
自由であるがゆえに罰せられているかのような。
この辺が冒頭の疑問の解になるんですかね。

こういう厳しさなんかは、サルトルが非難される一因かもしれません。
自分のような怠け者には、美しくもしんどい感じです。

また時代的制約もあっただろうけど、マルクス主義に傾倒してソ連とコンタクトをとったりもしていたみたいですし。

エキセントリックで実験的過ぎて、後世嫌われたのかも?


締めくくり


ともあれ、その後、構造主義が台頭して彼の実存主義をデコードしてしまった(とされる)ものの、部分的に今でも有用な発想をたくさん有していると思うのです。

思想は流行り廃りあっても、人間は変わらないわけですから…。

文明開化以降、以前から潜んで居たクリスチャンに学ぶでもなしに、いきなり思想的背景なく、自由や義務といった訳語だけ受け入れてしまった僕ら極東の島国。

ここでは、神道や仏教や儒教やらの影響と併せて、濁りながら彼の名言を理解するしか、手立てはありませんけれど。

最後に復唱してみます。
人間は自由の刑に処せられている。

L’homme est condamné à être libre.
(Man is condemned to be free.)

ジャン=ポール・サルトル

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