洋ナシに用があるんだ
洋ナシがとどいた。
注文したからとどいたのだが、箱いっぱいの洋ナシをみて、一瞬「ヒッ…」となる。
ある作品で、犯人はかならず事件現場に洋ナシを残していた。
洋ナシは社会から必要とされなくなった人間を意味していて、つまり「用がないからヨウナシ」。
洋ナシをみると、ついそれを思い出してしまう。
ひさびさの最新作にもそれが出てきたから、今はなおさら。
いやいや、わたしは洋ナシを犯行のメッセージに使ったり、土に埋めたりしない。
届きたての果実はまだ青々としていて、かたかった。
でも洋ナシが食べたい。食べたいから買ったんだ。
だれかが加工した洋ナシを捜索に行こう。
例の店が、季節限定で洋ナシのマフィンを出しているのは、調べがついている。
ようやく、無理なく20分歩ける季節になった。天気もいい。
鎌倉は高い建物がないから、まばゆい日差しに照らされて、セロトニンも満タン。
約1年前、あまりにも勢いよく開いて店員さんを驚かせてしまったドアは、引き戸に変わっていた。
特殊部隊のごとく突入してしまうひとが、他にもいたのかもしれない。
今回は平日の午前中におとずれたので、種類も在庫も豊富だった。
あいかわらず、引っ越してきたばかりのようなシンプルな店内。
お目当ての洋ナシのマフィンは、ケースの左上、A立地にたくさんならんでおり、無事確保した。
ついでに、梅と栗とあずきのマフィンも。
手書きの品種見分けシール、耐油紙のキャンディ包みは、手作り感があふれていて、かわいらしいしあたたかい。
飾り気のない紙袋につめられたそれは、作り手の存在をすぐ近くに感じる。
もちろん、きれいな包装紙や、かしこまった箱につめられたそれにも、贈り手の気持ちを語るという良さがあるのだけれど。
みるからにカリカリの天面。
朝の光だとそうでもないが、夜に写真を撮った梅のマフィンは、うっすらカリフラワーの影をまとってしまった。
ひとえにわたしの撮影技術の問題だが、このカリカリの凹凸感はより伝わると思う。
では、まっぷたつにしてみよう。
断面の3分の1は洋ナシ。思ったよりも存在感がある。
ふかふかのマフィンのあいだに、火が通ってくたくたになった洋ナシが、ごろんとおさまっている。
木の中でうずくまって眠るリスのようで、大変愛らしい。
わたしもそこで冬眠して、いつの間にか繁忙期が終わっていてほしい。
やはり、しっとりのほろほろのふわふわである。
天面のカリカリから、一気にスッと歯が沈み込む。
ふわりと小麦が香る。
口馴染みのよい甘み。
日だまりのような包容力の生地。
そこへ、褐色でくたくたなのに、みずみずしい洋ナシの果実感がはじける。
白いクリームがなめらかで、洋ナシの水分をいいかんじにまとめてくれていた。
生食もいいけれど、火が通って落ち着きが増した洋ナシは、円熟味があって気持ちがおだやかになる。
はじめてここのマフィンを食べたときの「この味は変わらずに守り続けてくれ…頼む…」という感動もよみがえった。
ちなみに味の想像がつかなかった梅のマフィンは、梅ジャムのような風味。
深みのある甘酸っぱさで、こちらはなんだか若々しく、ほんのりやる気が出る。
その日はあまりにも天気がよかったので、北鎌倉にも足をのばした。
週1回、平日にしか営業していないため、なかなか行けずにいた洋菓子店へ。
なんと、数週間前にインスタで今期は終了と案内されていた洋ナシのタルトが、まだあった。
看板商品のレモンタルトとともに、迷わずこちらも確保。
この店とレモンタルトの件は、長くなるので日を改めて報告したい。
洋ナシのタルト生地は薄めでサックサクで、肉厚でやわらかくて甘い洋ナシとの相性が最強。
洋ナシに用があるわたしに、洋ナシが洋ナシを呼んでくれた日だった。
ん?
例の作品にならうと、わたしが洋ナシをしかけられる側だった可能性もある。
会社でヨウナシにならないよう、冬眠など考えずに働こう。人間だもの。