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問いが答えの及第点
散々散歩 病巣
求めても答えが出ない
欲しい答えなど
求めれば求めるほど
出してはくれない
自問自答ならまだしも
対人関係だとキツいですよね
だからって相手をコントロールするスキルなど持ち合わせちゃいない
恋愛関係もそのようで
仕事関係だと実に辛い
そこに上下関係があれは尚更
むしろこちらが妥協しては一歩下がるばかり
しがみついて齧りついて離れられない人たちには
私みたいに先ず逃げることを最優先に考えるなんて出来ないでしょう
血涙流しつつ踏ん張るストレスは如何ばかりか?
だとしても保証がないよりはマシと考える
保証が無いのは怖いですよね、心許ないですよね
お金が貰えないのに仕事します?
しませんよね
対価があるからやる
対価がなかったら即刻辞めてますよね
保証がある人生
前提があって生きる命
ここらへんをどう割り切ること出来るかが
その人の人生のアプローチかと思います
ではバランスを考えてみたら如何でしょう?
ほどほどに生活出来たらいい
もし合わなかったらすぐに辞めて次に行くくらいのスタンス
バイト感覚
スキゾとパラノのハイブリッド
でもねぇ
一回いい生活を味わうと水準を下げることが出来なくなるもんですよね
例えば携帯電話のない生活が想像出来ますか?
出来た方は電気のない生活ではどうです?
デジタルデトックスなんて言いますけど、疎外された生活送ってない限りまた必ず戻ってきますよ
私だってなるべく水洗便所を使いたい
まだ余裕あるとはこういうことなんでしょう
対象が自分だったり他人だったり
ついつい比較してしまう心理
これは怖いですよ
過去や数値化されたものに引きずられて生きるのですから
いいとこだけ記憶に残ってて
そいつをやたらと強調したがる人に会ったことありませんか?
私は修行時代しょっちゅうでした
昔の方が厳しかったって言いたがる人がいたんですよ
多分その人ももっと昔の人に言われてきたんでしょうね
令和にあって昭和の感覚持ち込まれてもなぁ
ある種の自己満足です
昔はよかったね、、は
なんの生産性もありません
結局みんな今が一番大事なんですから
過去に生きてるのが滑稽くらいで済むんだったらまだいいじゃないですか
私のまわりにいた人たちの話をしますね
特に重症だった人たちです
正社員信仰によって狂った、または病んだ人たちは
折衷案にシフト出来ませんでした
プライドなのか責任なのかは私には分からない
ですが狂ったり病んだりするくらいなら、、と心底残念に思いましたよ
全快はもう無理なんですから
それに付き合って生きてくしかないんだから
そうなっても雇う側はなにもしてくれませんね
よっぽどじゃない限り訴訟にでもならない限り
重い重い腰は上がらない
その人でなくてはならない仕事ならまだしも
幾らでも代わりがいる
使い捨て雇用
この場合、忠誠を誓った者負け
それでいいんでしょうか?
でも雇われる際に交わした契約はそうなのだから
仕方ありませんね
おかげで酒に飲まれ薬漬け
半死半生でも齧りつく彼らに
なんと声を掛けていいものか考えさせられました
最早別人ですもん
これは資本主義の一つの末路ですよ
ロールモデルって言うんですか?
ありふれた話だとしたらたまったもんじゃない
彼らの得たもの失ったものとは一体何でしょう?
これは企業戦士に限ったことではありません
例えば我々僧侶も僧侶ゆえに病むのです
理想に燃えている修行者ほど病む
自身だけならまだしも
衆生まで変えられると思っている
自分が立派になれば
悩み苦しんでる人を助けられると信じてる
別に悪いことじゃない
むしろ称賛したいくらい
落とし穴はここです
哀しいことにバランスを欠く
世情に詳しくない上に
圧倒的社会経験不足によって
悉く粉砕されていくのです
それこそが修行なんですが
燃えてる本人にはそれが理解出来ない
余裕がないから
反対意見など言われようものなら敵視する始末
なんとか踏ん張って導こうと奮戦するのですが
残念ながらお節介が過ぎるのです
変わらないことに苛立ち始めるのです
こうなったらもういけない
放っておけなくなるわ追い込むわで薬が毒になる
結果、離れることになる
どうしても変わりたい救われたいと願う人ってのは
藁をも掴むんですよね
自分から求めるものなんです
だからあくまで信仰は自己に向けるべきものです
信仰ゆえに他人に押し付けてしまうのは病であると私は断定致します
気持ちは分からないでもないのですが
本末転倒甚だしい愚行
ではどうするか?
だから放っておくことって大切なんですよ
見守るというよりはもっと軽い感じで流せるというか
私が正社員信仰に殉じた人たちへの接し方はこれでした
藁をも掴む人は
身体がそれを欲するので
個人差はあれど、なっていくもんなんです
なってないならば、まだ心底欲してない、余裕がある状態なんです
ですから沈思黙考は必要なんです
とことん自分に素直になってみる
忙殺されてる人がほとんどです
空いた時間はSNSに浸かって仮初めのドーパミンで泡沫の快楽を貪るのみ
心や感受性だって筋肉なんです
時間がかかるんです
時間をかけてズタズタにされたのを
一撃で全快出来ると虫のいい考えをするのもまた人間のスケベ根性ですね
それとは別に私の経験
只管打坐
宗教のことなど今でもちんぷんかんですが
修行僧として坐れたのはよかったと思ってます
これは昔はよかったねとは違います
数値化されないところです
分別の働かない世界
老若男女も上下も対価も善し悪しもないところに
どっかり坐る
後先なんて知ったことか!
なんてことさえも思わない
夜が朝になり小鳥が囀り
風が吹いてたり雨が降ってたりする
ですがそれさえ全く気にならない
五感もくそもあったもんじゃない坐禅
そう滅多あるもんじゃあないですがね
そんな組んだ足を解いてそのまま娑婆世界に出てしまったから
私はいつだって孤立してます
仕方ないですよね
私も病です
娑婆にありながら
一人だけのほほんほん
それはやはり病なんです
衆生はともかく仏家であるならば
どうしたもんかな?
だからってお節介はイヤだな
それが今回の句です
句は苦でしょうか?
濁ったら愚でしょうか?
言葉遊びも案外核心ついてる気もしますが
如何でしょうか?
とりあえず及第点には程遠い気も致しますが
生きてる限り問い続けることが答えだと思っております
とはいえそんなに根詰めて眉間に皺寄せなくたっていいじゃないですか
いい感じで!
テキトーに!
お任せします!
手を合わせたら
神も仏も
あいよぉ〜!って仰いますよ
エンジョイ!
合掌
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