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短編小説 “ただ生きる”

春雷の轟きが止み、ふと空を見上げると朧月が夜空を柔らかく照らしている。

仕事を終え自宅に到着すると、いつも通り玄関で鏡に映る自分に向かって
「ただいま」と声をかけるが
「お帰り」は聞こえてこない。
リビングには脱ぎっぱなしの靴下が丸まって何個も転がっている。
TVをつけると名も知らない若手芸人たちが昔流行った女性歌手の曲を素人レベルのモノマネしながらお互いをけなしあって楽しんでいる。
コンビニで買った唐揚げをあてに缶ビールを2本空けてソファーに横になった。
芸人たちの放つ金切り声がうるさいなと不快感を感じていたが、酒が進むにつれ子守唄へと変わり瞼が閉じていった。
「こんなとこで寝てたら風邪ひくわよ」
サクラの小言が聞こえた気がしたが、また意識が遠のいていった。

サクラと出会ったのは15年前。
挫折の繰り返しであったそれまでの人生にピリオドをうつべく、地元を離れて今の会社に転職した。
当時彼女は転職先の隣の部署で働いていた。
新卒入社3年目でサブリーダーを任されているだけあって、年齢と見た目だけが貫禄のある僕よりもよっぽどしっかりしていた。
仕事漬けの毎日の中、彼女とは時折挨拶を交わす程度の関係であった。
転職して2年が過ぎようとする頃、新規プロジェクトを任されることとなった。パートナーとして少し前に部署移動してきたサクラが選任された。
これがきっかけで、仕事帰りにたまにご飯にいくようになり徐々に距離が縮まっていった。
酒が入ると仕事の愚痴をこぼし合う事もあったが、途中からは必ず2人の共通の趣味であった映画の論評が始まり時間の許すまで熱く語り合った。

それから半年足らずで自然と恋愛関係に発展し、付き合ってからちょうど3年後に僕らは結婚した。
家族 友人 同僚からの祝福に包まれて僕らは夫婦として歩きだした。
特段人に自慢できるようなエピソードはないが、ごくごく平凡で幸せな夫婦生活だったと思う。
結婚後、彼女は時短勤務に切替え、仕事と家事の両立に悪戦苦闘しながらもいつも前向きに全力でこなしていた。
僕は僕で相変わらず仕事に忙殺はされていたが、週末の夫婦デートを楽しみに仕事にもより身が入り充実した日々であった。

そんな日常が突然崩れたのが結婚して4年目の秋だった。
外回りの営業から戻り残業をこなしているとサクラから着信が入った。
「もしもし どうした?」
「お昼過ぎからお腹が痛くて1時間前くらいから熱も出てきたから薬飲んで先に寝るね。御飯はスーパーかコンビニで買ってきて。」
「大丈夫か?できるだけ早く帰るから。」
「大丈夫。心配かけてごめん。お仕事頑張って。」
彼女の声色に一抹の不安を覚えた僕は、仕事を早々に切り上げタクシーで帰宅すると、彼女は高熱で意識を失って倒れていた。
パニックに陥りつつも救急車を呼び彼女の手を握り無事を祈った。
救急車内で受けた解熱剤で熱は一旦下がったので一安心したが、状況的に精密検査をした方がいいとの医師の判断でそのまま入院し、翌日精密検査を受けることとなった。

数日後、検査の結果を主治医から説明された。
腹痛と高熱の原因は膵臓で産生される消化酵素を含む膵液が膵管内に詰まって膵炎を引き起こしていたためであった。
続けて、彼女の体は膵臓癌のステージ4の状態で既にリンパにも転移しており、手の施し様がない状態との事だった。
それより先の説明は正直何も覚えていない。
眼前から全ての色が消えモノクロの世界で彼女の泣き声だけが響いていた。サクラの両親が地元の福岡から病院に到着する頃には彼女は病室で眠りについていた。

両親を含めて今後について話し合い、自宅の近くに両親がアパートを借りる条件で自宅療養する事になった。
会社には事情を説明し自宅でのテレワークの許可を得て、彼女との時間を最優先に残りの時間を過ごした。
彼女はこの受け入れ難い現実から逃げる事なく真摯に向き合った。
自分が死ぬ恐怖よりも彼女が居なくなった後の僕の心配ばかりしていた。
病魔はあっという間に彼女の体を蝕み、みるみる彼女は末期患者たる状態に陥った。

自宅療養を始めて2カ月後がサクラの誕生日であったため
「何か欲しいものある?」
と聞くと
「あなたの作ったオムライスが食べたい」と言った。
結婚して初めて彼女に振舞った手料理がオムライスだった。
人生2回目の明らかに不恰好な姿のオムライスを彼女はゆっくりゆっくり口に入れた。
「ごちそうさまでした」

ーーー2週間後サクラは僕の世界から居なくなった。

彼女を失ってから何年も経ったが僕は“ただ生きている”。
再生までを書きたいがそれはまだまだ時間がかかりそうだ。
前を向ける日がいつかくるかもしれないが、その時まで
“ただ生きよう”


               (了)


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