表現・生活・呼吸・新しき村
埼玉県内を、北西部に向かって縦断する「八高線」の、「高麗川」と「毛呂山町」のあいだに、「とても小さな踏切」が、ある。
その「踏切」を渡り、直進する。
すると、やがて、何やら文字が刻まれた「木の門」が、見えて来る。
「踏切」は、その場所への、「入口」のようにも、見える。
その「門」には、
「この門に入るものは自己と他人の 生命を尊重しなければならない」
と、刻まれている。
作家「武者小路実篤」の「言葉」だ。
「この門」は、「個人」の「表現による自己実現」と「人間らしい生活」とを両立させる方法について考え抜き、「実行」を試みた、稀有な作家である「武者小路実篤」が、遺し、今なお存続している「新しき村」の「入口」なのである。
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「武者小路実篤」。
わたしがその作家の名前をはじめて聞いたのは、小学校四年生くらいのころだったと記憶している。
いつものように、夕方、晩酌をする父の横に、ちょこんと座っていたわたしに向かって、少しご機嫌になってきた父が、にこにこしながら、こんな話をしはじめた。
「武者小路実篤っていう名前の小説家が居るんだけどな、そのひとが書いた『馬鹿一』っていうおはなしはな、すごーく面白いんだぞ。」
「『馬鹿一』って言うの?」
「そうだ。」
「へー。なんか、すごい題名だねぇ。わかった。 明日、本屋さんに行って、探してみるよ。」
わたしは、そう、答えた。
父は、ときどき、そうやって、気まぐれに、自分が好きな本の題名を教えてくれることがあった。
父が紹介してくれる本は、意外に面白いことが多かったので、わたしはいつも、とりあえず読んでみることにしていた。
当時住んでいた「変わったかたち」の県営住宅の前の、急な坂道を、登りきって、左折するとすぐに、わたしがよく本を探しに行く、小さな書店があった。
翌日、学校から帰ると、わたしは、さっそく、前の日の夜に、父から薦められた「馬鹿一」を、探しに、その書店に行った。
すると、それは、すぐに見つかった。とてもとても薄い、文庫本だった。
ーー小さな本屋さんにも置いてあって、すぐに見つかるんだから、有名な作家なんだな。
わたしは、そのとき、そう、思った。
パラパラとめくってみたら、会話が多い。十分くらいで、すぐに読めそうだった。
迷わずに買って、家に帰り、ワクワクしながら、大急ぎで読んでみた。
それは、小説なのに、まるで落語のような感覚がするものだった。会話そのものが、面白いのだ。
そのうえ、「馬鹿一」の「考えかた」は、わたしには、とてもしっくりと来た。この作家は味方だ、というおもいがして、わたしは、妙に、嬉しくなった。
それから、わたしは、「武者小路実篤」にハマっていった。
幼いころに読んだこともあって、わたしのこころの土台には、今でも、「武者小路実篤」の「考えかた」は、消えずに、しっかりと、根付いている。
彼は、「文学」を通じて、「理想」についておもい、「人間のしあわせ」を願い、どうやったら、それを「実現」することが出来るのかを、真面目に考えた「実行のひと」だったから、わたしは、こころからリスペクト出来る人物だ、と、今でも、密かに、思っているのだ。。
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二〇一九年 九月。
わたしたち家族は、東武越生線「武州長瀬」駅に、降り立っていた。
長女は、ギターを、携えていた。
二〇一〇年から活動休止していた娘たちのユニットが、九年振りに、「演奏」をするために、これから、「新しき村」に、向かうところ、なのだ。
良いお天気。きれいな青空。
まだ、秋というには、ほど遠い暑さだった。
わたしたちはタクシーに乗って、八高線の「小さな踏切」を渡り、無造作に、それでも、厳然と立つ、その「門」の前で、降ろしてもらった。
村のなかには、ところどころに、紅い鶏頭の花が咲いているのが、遠目からでも、はっきりと見えた。
家族と一緒に、「門」の前に立ったわたしは、さまざまに感慨深いものを、ひとり、感じていた。
わたしたちは、ゆっくりと、その、「文字が刻まれた門」を、通り抜けた。
初めて入る「新しき村」。。
ーーほんとうに、在ったんだ。
それが、わたしの、「率直な感想」だった。
小学生のころに、その「存在」だけは、本で読んだことがあった「新しき村」が、それから五十年以上経っても、まだ、在って、そうして、ひょんなことから、その「創立記念日式典」に招かれて、自分の娘たちが「うたを演奏する」なんて、「出来過ぎなおはなし」でしかない、ではないか。。
村内を進んでゆくと、お世話役の方が、わたしたちを手招きしてくれていた。
「あー。いらっしゃい。今日は、ありがとうございます。」
ーーいやいや、「ありがとうございます。」は、こちらのセリフだ。
こころのなかで、わたしは、そう、思った。
一軒の家が、わたしたち家族の控室として、提供されていた。そこは、誰かが暮らしていた痕跡のあるおうちで、至るところに「武者小路実篤」の書物や、言葉を書き写した額などが飾られていた。
そんなお部屋に、わたしたちは、荷物を置かせてもらって、「新しき村」で穫れた餅米で炊いた御赤飯をご馳走になった。
もう、なんだか、すでに、胸が一杯になっていたことを、思い出す。
「新しき村」のなかには、「武者小路実篤記念 新しき村美術館」があり、さまざまな資料が、常設展示されている。
「武者小路実篤」の絵や言葉だけでなく、交流のあった画家たちの絵なども、展示されていて、その時代に興味のある者にとっては、宝物のようなものばかり、観ることが出来る。
その日に行われるのは、開村から数えて百一周年の記念式典だった。「講堂」で行われるので、簡単なリハーサルも、そこで、すでに集まり始めているお客さんたちの前で、ゆるく、行われた。
いつの間にか、お客さんたちは、講堂を埋め尽くしていた。この日のために、いろいろなところから、「賛助会員さん」たちが、集まって来るのだ。
やがて、「式典」は、はじまった。
「武者小路実篤」のお孫さんや、「新しき村」の村長さんの、記念式典らしいおはなしのあとに、「お楽しみ会」は、催されていった。
娘たちの「うたと演奏」も、「詩の朗読」や、他の方たちの「うた」や「踊り」などに混じって、当たり前のように、馴染んだ感じで、披露された。
ーーまだ信じられないけど、嬉しすぎる。。
わたしは、こころから、そう、思った。
娘たちの「うた」は、長女のアコースティックギターの音色とともに、講堂の舞台の上から素朴に響いて、「新しき村」の土の中に、溶けて行ってくれたような、そんな、気がした。。
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わたしが「大腸がん」で「余命宣告」を受けていた二〇一〇年には、長女も、すっかり、体調を崩してしまっていた。。
仕事かライブか練習か、の繰り返しで、休む暇もない忙し過ぎる生活は、知らず知らずのうちに、わたしたちのからだを、蝕んでいたのだと思う。
今は、すっかり元気になったけれど、長女の体調不良も、完治するまでには、十年近くかかった。。
あの当時、ギターが弾けなくなった娘たちのユニットは、残念だったけれども、「活動休止」するしか方法がなかった。
ひとり残された次女は、自分を見つめ直しているうちに、やがて、「学び直し」をする、と言い出した。
そうして、ひとたび、「学び」を再開してみたら、次女は、自分が、ほんとうは「勉強好き」だったことに、気がついたのだ。
次女の学びは、導かれるままに続き、ついには「大学」にまで、進むことになった。
専攻したのは、「日本文学」だった。
わたしは、そもそもが「日本文学好き」だから、次女とは「共通話題」も生まれ、会話も弾むように、なって行った。
やがて、次女は、「武者小路実篤」に興味を持ち出した。そうして、「武者小路実篤の新しき村」を、「卒論」のテーマにすることにしたのだった。
その「卒論」が、「新しき村」の「お世話役」の方の目に止まった。そこから、交流がはじまり、「創立記念日式典」への「参加」という、「ご褒美」のような出来事が、降ってきたのだ。
もしも、「馬鹿一」を読んでいる十才のわたしに、教えてあげることが出来たなら、きっと、腰を抜かすほど、驚くことだろう。。
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「新しき村」は、もともとは、一九一八年(大正七年)十一月十四日に、宮崎県の日向に、創られた。
それは、ロシア革命の翌年であり、また、第一次世界大戦が終わった年、でもある。
先に、「武者小路実篤」が、「志賀直哉」ら学習院の朋友たちと、雑誌「白樺」を創刊したのは、一九一〇年(明治四十三年)四月のことだった。
文学史的には、彼ら一派は、「白樺派」と呼ばれるようになってゆくが、「新しき村」創立は、その八年後、ということになる。
「白樺派」が主張したのは、徹底した「自己肯定」であり、「個性主義」と「自由主義」だった。
「新しき村」は、その新しい「思想」を「体現」すべきものとして、「武者小路実篤」が、独自に考え出した「新しい在りかた」だったのだ。
もともと、「武者小路実篤」は、「トルストイ」に傾倒していた時期があり、「貧富差のない、皆がしあわせを感じられる社会」への希求が、かなり若い頃からあったのだけれど、トルストイが、「神から見た正しさ」を、「全てのひと」に求めることに、彼は、「息苦しさ」を感じ、悩んでしまう。
「トルストイ」に対して、違和感を感じるようになってゆくのだ。
悩んでいる途上で、彼は、「上田敏」を訪ねる。そんな彼に、「上田敏」は、「メーテルリンク」を紹介したのだった。
「メーテルリンク」は、「トルストイ」とは違って、「自分を愛すること」を説いていたため、彼は、しだいに「メーテルリンク」の思想に、「賛同」してゆく。
徹底した「自己肯定主義」は、「トルストイ」や「神の視線」から「解放」されたのちに、生まれてきたものだった。
「自分を信じ、自分を高めてゆくこと」によって、一律ではない、それぞれ「自分の実力」に応じた「社会への関わりかたが出来る」という視点を、彼は、得てゆく。
「自分は、自分を、生かしきるために生まれているのだ。」
彼は、そう考えるに至り、その「自己肯定主義」は、揺るぎないものになって行った。
「新しき村」では、「村」で暮らす会員たちは皆、一日のうちに、一定の労働時間を「村の労働」に提供すれば、残りの時間は、個人の「自由時間」になる。自分を高めるために、「好きに使える」のだ。
だからこそ、「文章」を書く者や、「絵画」を描く者など、いろんな「芸術家」が、「新しき村」には、集まって来た。
「自己表現」と「生活」とが両立出来て、かつ、個人の「自由」が認められる調和的な暮らしを、「新しき村」は、実現しようと、したのだ。
農業を生産の主体としながらも、従来の「村落共同体」と、大いに違うのは、「集団主義」は認められず、「個人主義」こそが、考えかたの中心的支柱として据えられたところだ。
「新しき村」には、いわゆる「リーダー」は、いない。皆がフラットな関係である。
それぞれが、自分を律して、良い暮らしを心がけ、ひとには要求せず、命令をしない。
「新しき村」では、ひとを損なうことなく、ひとりひとりが「個人」として、良い暮らしかたをし、自分を高めてゆくことで、「村」に貢献してゆけるような、そんな「在りかた」を、各人が、空気のように作り出して、「皆が、しあわせを感じながら暮らせること」を、「村の目標」として、掲げたのだ。
宮崎県日向ではじまった「新しき村」は、ダム建設によって、主要部分が水没することが決まったために、一九三九年(昭和十四年)九月に、埼玉県の毛呂山町に「東の新しき村」を創った。
今も、宮崎県の「新しき村」には、一人のかたが、生活している。
だから、「新しき村」は、全国に二ヵ所、あるのだ。
毛呂山町の「新しき村」は、最盛期には、村民が、六十人以上も居て、「村」として大いに成り立っていたらしい。村内に「幼稚園」まであったほど、子どもたちも、たくさん居たそうだ。
一九五十年代には、経営は黒字で成り立ち、六十年代、七十年代は、豊かに暮らせていたようである。
ただ、「村」の大きな収入となっていた「鶏卵」事業が、「卵の値段」の低落によって、望めなくなったことなどから、「村民」よりも、「村外会員」になって、出てゆく人たちが増え、また、高齢化による離脱もあって、「村民」はしだいに減り続けて行った。
それでも、その精神は、百年以上経った今でも、受け継がれているし、賛同して「村」を支えている「村外会員」は、まだまだ全国に居る。
毛呂山町も、「存続」のために、協力を惜しまないという意思表示をしている。
ほとんどのひとたちは、「新しき村」を知らないだろうけれど、これは、「奇跡」に近いことなのではないだろうか。
百年以上前に、「八時間以上は働かないこと」や、「人間らしい暮らしを送ること」などを、当たり前のように主張することが出来た「武者小路実篤」の「先見性」と「想像力」と「知恵」に、わたしは、紛うことなく、脱帽する。
「新しき村」に、再び「芸術家」や「表現者」が集って、栄えてくれたら良いのになぁと、願ってしまう。
「芸術家や表現者」の生活が、「資本の論理」から「解放」されて、「彼ら」が、もっと安心して「呼吸」出来たなら、国の文化は、もっと多様になり、さらに、豊かになるはずだ、とも、思うのだ。
進歩的な「武者小路実篤」が、もしも、今、生きてきたら、どんな知恵を絞るだろうか。。
きっと、奇想天外な発想で、皆を驚かすのではないだろうか。
もしかしたら、野菜は、「工場で生産しよう」とか、言い出すかもしれない。
あるいは、「農業」は止めて、「これからはIT産業だよ。」なんて、言うかもしれない。
彼は、人間が楽に労働出来るなら、積極的に、機械なども使うべきだ、と、主張していたのだから。。
過去のままを踏襲することは、潔しとしないような、そんな気がするのだ。
「目的」は、「自己表現と生活の両立」なのだから、それが叶うのであれば、彼なら、どんなことでも、試してみようとするのではないだろうか。
「固定観念」に囚われないで、みんなの「知恵」を集めたら、何か、さらに、新しい、「新しき村」が生まれるような、気もする。
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「おとうさん。今日ね、凄ーいことがあったんだよ。」
「新しき村」から帰ったわたしは、さっそく実家の父に電話をした。
「どうした?」
そのころの父は、毎夕かける、わたしの電話を、楽しみに待っていてくれたのだ。
「武者小路実篤の新しき村に行って来たんだよ。」
「ほう?」
「武者小路実篤だよ、覚えてない?」
「うーん。なんか、聞いたことある気がするけど、わかんないなぁ。」
残念なことに、九十才も過ぎてしまった父には、もはや「武者小路実篤」を思い出すことは、出来なかった。。
まだ認識出来るころに、この「ビッグニュース」を教えてあげられたなら、きっと、大喜びしてくれただろうに、月日は、残酷だな、と思うしか、なかった。
それでも、これは、確実に、「父」が「撒いた種」が「花開いた結果」に違いないのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
二〇二三年 九月。
わたしたち家族は、また、タクシーで、「八高線」の「小さな踏切」を渡っていた。
コロナが猛威を振るって、ずうっと開催出来なかった「新しき村」の「創立記念日式典」が、今年は、ようやく、開かれることになったのだ。
娘たちのユニットは、また、「記念日式典」で、「演奏」が出来ることになった。
二〇一〇年の活動休止から、もう、十三年も経っていた。。
そんななかでの、二回目の「演奏」である。
今回は、「新曲」も、携えていた。
作詞は次女。作曲は、主に長女。次女の意見も取り入れて、創られていた。
「会えなくなってしまったひと」と、さり気なく、「再会」できたなら、それは、「祝福」に値することだ。見守っているおもいが、どうか、届いてほしい。
といったような、「うた」だった。
「新しき村」にも、たくさんの「再会」があって、そうして、「祝福」が、できたら、うれしい。
そんなことを言って、二人は、演奏した。
二人の「うた」と、長女のアコースティックギターの「音」は、また、「新しき村」の土の中に、温かく、静かに、溶けていった。
二人は、わたしの父から続く「おもいの種」を、「祝福」を込めて、「新しき村」に撒いてくれたのだ、と思えて、わたしは、なんだか、嬉しくなった。
「新しき村」に撒いた「おもいの種」が、どうか、いつの日か、芽吹きますように。。
「新しき村」自身も、新しい「生きかた」が、見つけられますように。
そんなことを思いながら、わたしは、二人の「演奏」を聴いていた。
「武者小路実篤」をわたしに教えてくれた父に、今年は、もう、電話での報告は、出来なかった。
父は、二〇二一年に、亡くなってしまったから。。
それでも、手を合わせて、天に向かって、わたしは、報告してみた。
ーーおとうさん、わたしたちは、「新しき村」に、「新しい種」を、蒔いて来たよ、と。
「自己表現と生活の両立」は、永遠の難問だ。まだ、誰も、答えは出せていないのだと思う。
それでも、「知恵」を絞り、「答え」が導き出せるよう、諦めずに、考え続けてゆくことが、「武者小路実篤」を、引き継いでゆくことになるのだ、とわたしは、思っている。
ひとりでも多くの「表現者たち」が、蹲ることなく、「呼吸」が楽に出来るような「しくみ」や「在りかた」が、「世界」に「顕れること」を、わたしは、ひたすらに、願ってやまない。
〈参考文献〉
※百年文庫96「純」
武者小路実篤 馬鹿一 ポプラ社
2011年10月7日
※「人間らしく生きるために」
ー新しき村についてー 武者小路実篤著 渡辺貫二編 財団法人新しき村
1994年5月12日
※武者小路実篤 人と作品 福田清人編 清水書院 昭和54年5月25日
※「新しき村」の百年
〈愚者の園〉の真実 前田速夫
新潮新書 新潮社 2017年11月20日
※新潮日本文学アルバム 武者小路実篤
新潮社 1984年4月20日
※「新しき村」HP
http://www.atarashiki-mura.or.jp/museum/index.html