醜悪な現実のパロディとしてのアンチマンと、タクシードライバーのこと
アンチマンという漫画がTwitterで流れてきた。
がっつりネタバレがあるので、未読の方はリンクからどうぞ。
孤独な男の妄想と現実が交錯する漫画「アンチマン」
読んでみてすぐに思い出したのは、マーティン・スコセッシが監督した1976年のアメリカ映画「タクシードライバー」だ。
いまだに「有害な男性性」「孤立感から他害に飛躍する男性の思考」などを語る際に俎上に上がる作品である。
主人公トラビスの社会的孤立感、女性に対する無礼なふるまい、根拠なく打抱く万能感…と、120分に満たない映像にもかかわらず、不快さと不可解さを存分に味わうことができる。
自意識過剰で孤独な男の物語「タクシードライバー」
「タクシードライバー」の主人公トラビスも変化のない日常的に鬱屈し、暇さえあればポルノ映画を鑑賞している。
街で見かけた女性ベッツィに対して強引に接近し、忌憚のない口ぶりで「おれは本当のきみを知っている」と口説いてかかる。
そしてなにをどう勘違いしたのかベッツィを馴染みのポルノ映画に連れて行き、当たり前のようにフラれてしまう。
メッセージや花を送って機嫌を取ろうとするがうまくいかず、ついには逆上して彼女の職場まで突撃した。
その後トラビスはたまたま行きあった未成年の街娼であるアイリスに接近して説教をし、きみを救いたいのだと熱弁する。
アイリスとの出会いによってトラビスの誇大妄想は加速し、クライマックスへと繋がっていく。
彼らの身勝手な“コミュニケーション”
溝口やトラビスを見ていると、数年前に田房栄子氏が描いていた「膜」のことを思い出す。
対象を自分に関わりのあるもの(さらには性的なもの)と認識して自ら凝視しており、さらには接触を求めて能動的に行動している。
その動きは能動的ではあるが、非常に一方的かつ唐突で、公共性や倫理から逸脱した価値観に依拠しており、コミュニケーションの体を成していない。
相手にしてみれば「いきなりなんだよ!?」ということなのだが、行為者にはその困惑が理解できず、理不尽に拒絶されたように感じるのだ。
そしてその“理不尽な拒絶”によって傷つき、ショックを受けさえする。
「アンチマン」の溝口は女性に対して夜道で通り魔的に体当たりしていく。道端で通りがかる歩きスマホの女性を物色し、あとをつけていって前方に回り込み、通りすがりざまにぶつかる。
それは意図的な暴力で、程度の差こそあれ、溝口の後頭部にナイフを突き立てた男とやっていることは同じだ。
溝口にとって、視界に入ってきた歩きスマホの女はぶつかりにいってもいい存在なのだ。
溝口はそういった自らの行為は棚上げして「女ばかりがぶつかられるわけではない」「歩きスマホで子どもや年寄りにぶつかって怪我をさせたらどうする」などと自己弁護に余念がない。
自ら能動的に接触し、あるいは接触することを妄想しておきながら、悪いのは自分ではないと信じる行為者の、他責思考と自他境界の曖昧な精神性が、よく描かれている。
「タクシードライバー」のトラビスも、自分から一方的にモーションをかけ、自分の性急で不見識な行動がもとでフラれたにも関わらず「バカにしてるのか?」「死んで地獄に落ちろ」「見損なった」とベッツィを罵倒する。
極めつきが「彼女もやはり冷たく、よそよそしい人間だった」というモノローグ。まるで恋愛詐欺にでも遭ったかのような被害者ヅラだ。
溝口とトラビスはよく似ている
思い通りにならない相手に平然と他害行動に出るのは、なぜか?
彼らには他者には他者の都合や好みや選択の自由があり、それは自分にはどうしようもないのだという視点が圧倒的に欠落している。
他者の都合や好みや選択を自分の思うままにしようとするのは間違いであるという基本的な自他の境界線が、トラビスにも溝口にも見えていない。
特に、自分よりも腕力が弱いことが明確な女性に対してはひどく傲慢にふるまう。一方的な好意の押しつけも、暴力的な威嚇も、やりたい放題だ。
相手が自分に逆らうはずがない(逆らっていいはずがない)と、無意識に信じているかのようだ。
そういった独善的で視野狭窄的なふるまいが、絶望的で滑稽な悲劇に結実していくさまが描かれているという点で、「アンチマン」と「タクシードライバー」は相似形だ。
満身創痍の溝口を訪ねてきたのは…
「アンチマン」のラストシーンでは、面会が禁止されていることを示唆する張り紙がありながら、母親とおぼしき老人がやってきて溝口の手を取った。
母親は溝口が幼い頃に家を出ており、その原因は夫の暴力によるものらしいということが物語の中で語られている。
要介護となった父と淡々と暮らしながらも、母が出ていく原因になった父のことを溝口はずっと恨んでいたようだ。
特撮ヒーローの女性主人公へ向けた「女は戦えないから逃げるんだろ」というセリフは、父親の暴力から逃げ出した母親を責める言葉にも思えた。
典型的なミソジニーとルサンチマンを肥大化させていた“健常な成人男性(社会的マジョリティ)”が、大怪我によって"不自由な身体(社会的マイノリティ)”になった時、長い間会っていなかった母親がどこからともなく現れて彼の手を温める。
しかしその救い(?)のシーンが現実であるかどうかは、読者には判断ができない。
トラビスの自己陶酔を彩るネオンサイン
「タクシードライバー」のラストでは「ギャングと戦ったタクシードライバー」という、トラビスを讃える新聞記事の切り抜きが映し出された。
娼婦をやめて実家に戻ったというアイリスの親から、トラビスに感謝の手紙も届いている。
当のトラビスは銃撃戦の果てに倒れたはずが、元気にドライバーを続けていた。怪我の後遺症があるようにも見えず、モヒカンにした髪の毛も元通りになっていた。
さらにはなんと、かつて彼を振ったはずのベッツィが客としてタクシーに乗り込んできて、心変わりを匂わせるような媚びた態度を見せるではないか。
しかしトラビスはそんな媚態には目もくれず、淡々とタクシーを走らせてベッツィを送り届けた。
そして最後まで名残惜しそうにふるまう彼女に向かって毅然とした微笑みだけを残し、ネオン輝く夜の街へと去っていくのだった。
そのラストシーンは、現実か、死ぬ間際の走馬灯か
どちらのラストも、現実なのか末期の夢なのか分からない。
あるいはすべては妄想の続きなのかもしれない。
肥大し膨張した承認欲求の見せる幻である可能性は、どちらの作品にもあるといえる。
「タクシードライバー」のラストシーンに関する考察は、見る者によってかなり違いがある。「アンチマン」も同様だ。
嫌われたくないと怯えながら、他害をくり返す溝口
人間関係に乏しい生活を送り、同僚やヘルパーにうっすらと疎まれるようなコミュニケーションをくり返し、行きずりの女性に通り魔的に体当たりをくり返す溝口が上記のように熱弁する。
誰かから嫌われることを厭うているのは、スマホの向こうにいる誰かなのか、それとも溝口自身なのか。
溝口というキャラクターには「フェミニズムなんてやってる女はみんなから嫌われるぞ!」と指を差しながら他者からの承認を求め、女体を恣にしたいと欲望してもがくミソジニスト男性の姿が写実的に投影されている。
ミソジニー主人公達が追い求める特権の姿
トラビスや溝口の他害行為や憎悪の発露に、昭和に生まれ平成に育ったわたしは「お父さんも辛いんだから」という決まり文句を思い出す。
相手を尊重したコミュニケーションをとるのではなく、「おれのことは分かって当たり前だろう。なぜ分からないんだ!?」とでも言いたげに大きな物音を立てたり、子どもを叩いたり、妻に一方的な要求をする。
明確に家庭内暴力だが、そういった非協調的で支配的な態度が「お父さんも辛いんだから」と、許されていた時代が、たしかにあったのだ。
なぜか父親という存在は、家庭内でのコミュニケーション義務から解放されていた。
そして父親以外の家庭構成員が、指図される前に父親の気持ちを汲むことを基本として行動するのだ。
子ども心に、
お父さんはウチで一番えらいんだなあ。
という認識が芽生えるのも、当然のことといえる。
家庭の支配者。
家父長制の中の王様、父親という特権だ。
溝口もトラビスも、自分だけが好きにできる他者を求めていた。
それはとりもなおさず、有害な男性性の発露は男にとって当然の権利であり、男性の有害さをも寛容に受け入れることが男性以外の者の義務であるという、既存の社会の教えがあったからだ。
女性達は意思ある人間として「それはおかしい」と発言し、自分の都合で行動し、自らの経験に従って、トラビスや溝口を遠ざけた。
彼らを父権の頂点だと崇めることはなかった。
肥大した欲望と現実の摩擦に擦り切れて、彼らは自爆したのだ。
実在する脅威としての「アンチマン」達
父親が家庭の支配者として振る舞っていた事実がかつてあったと書いたが、それらはすべてが完全に過去のものともいえない。
溝口やトラビスのような存在も、決してフィクションではない。
彼らが極端なカリカチュアであり、決して実在しない非現実なキャラクターだと断言できたらどれだけいいだろう。
おれに興味のなさそうな女、
おれの前を歩きスマホで通り過ぎる女、
おれの前でスカートにパンツの線を浮き上がらせていた女、
「そういった女におれが罰を下すことは悪いことではない」
そう信じてやまない人間が実在する。
その現実こそが、もっとも恐ろしいのではないか。
ではまた。