<熊楠 ー生命と霊性ー>安藤礼二
5年ほど前から、中沢新一氏の南方熊楠コレクションと出会うことがきっかけで、僕は南方熊楠の影響を受け続けてきた。
そして熊楠の思想というものに触れたくて直に紀伊半島を旅したりしつつ本を読んだ、熊楠がそうしたように様々な自然や文化や神森に触れながら本をたどり、思考を促すことをしてきたように思う。
本書の著者である安藤礼ニ氏は元編集者らしく、それを知って色々と腑に落ちた。以前安藤氏の書いていた、「折口信夫」もまた素晴らしい本で、この人の書く本は、本から本へ、本の海を渡るかのように無数のアーカイブのあとを辿ることになる、「折口信夫」を読んだ後で、僕は本の中で活用された本をメモっていたのだけど、100冊を超える本になっていて驚いた。
そしていつものように読了とは何事の収束でもありえず、また僕はその出口に向かって開かれた100冊の本の海をこぎ出すのだった。
本書もまた、本の海を渡っていく、鈴木大拙、井筒俊彦、ヘッケル、ライプニッツ、稲垣足穂、さらにフーコーまで、そしてまた仏教の西側を辿る旅が続き宗教の合一、新たな仏教の息吹が感じられる、ネオテニー、大日、霊性、モナド、そして粘菌、両性具有、曼荼羅。
宗教観の位置付け、その神社合祀反対運動の布石としての流れ、合流していく偉人たちの動きを紐解いてくれるのは、すごく感動的だったけども、位置付けることにどこまでの意味があるのか、正直、書名から期待したパワーをもらうことができなかったような気はする。
この僕の残念感は、以前読んだ、最近の熊楠研究の書である中沢新一氏による「レンマ学」にも感じられた、僕は鶴見和子や、平野威馬雄や、水木しげるによる研究が好きだ、無理な力を加えて新しいカタチに叩き直すことではなく、僕は熊楠のラジウムとしての力、触れるものことごとくを発光させるような力、その力の増幅器のような本を期待する。
熊楠の思想の脈絡、どの本を読んだか、何にどのような影響を受けたか、もちろん大切な研究だと思う、けれどもそれを著者の解釈で波及させていくとき、僕らは著者のラジウムの力を読み取ることになる、そしてその著者のラジウムとしての力能が熊楠よりも高いかどうか、比べてしまうことになってしまう。
僕は熊楠に上手に乗っかりたいのだ、乗っ取りたいわけでも自分の流れに寄せ付けたいわけでもない、ましてや熊楠を消化してしまうようなことがあってはならない。熊楠の上に上乗せすること、すごく慎重に、熊楠その人のラジウムとしての生命力を削ぐようなことはあってはならない。
無数の糸口を紐解いてはくれた、それは嬉しい、けど、この手の本を批判するつもりはないけど、ちょっと愚痴りたい気にはなった、それほど理解できたかといえば自信などない、けどもこの本を読んで、期待したほど僕は光れなかった、ラジウムとしての力能。熊楠の手紙から溢れるあのパワーを増幅してくれるような本を読みたい。
この本の内容の核の部分は、僕が5年ほど前に書いた熊楠についての論考にかなり似ているような気がした、粘菌として思考する熊楠、その外堀を本書は説明してくれたわけだが、その核としてのラジウム的力能を読みたい人は僕のテキストを読んで欲しい。
えらいエラソーな物言いをしてしまってるけども、敬意を表して、僕は正直にそう思ったのがからそう書かせてもらうことにする。
熊楠のラジウムとしての光を、より光らせることができるように、もっとプリミティブに思考し、発光できる人間になりたいと切に思う。