アラサーちゃん

岸優太を哲学したい

アラサーちゃん

岸優太を哲学したい

最近の記事

秋の人へ送る拙いラブレター

岸くんは〝秋の人〟。そういう意識がわたしのなかに常にある。 彼自身、自分のことを「夏男」と評している。悪くはない。確かにそうだ。彼の風貌、キャラクター、パブリックイメージが、ひたすらに「岸優太は夏男」だと言っている。まったくもってまことにその通りだと思う。 けれど、2018年から少しずつ、自分なりに彼を紐解こうと試みてきた私には、どうしたって岸くんは「夏男」で済ますにとどまらない男なのではないか、と思えてしまう。というよりむしろ、私にとって岸くんの季節は決して夏ではないのだ

    • 「岸くんと私」宇宙を漂う旅人の独り言

      私にとって、アイドルに恋することは宇宙を旅するようなものだ。アイドルとは壮大なロマンであり、果てなき夢に溢れ、未だ解き明かすことのできない謎を秘め、無限の魅力を持て余している。ひとたび彼らに惹かれてしまえば、たちまち強大なブラックホールに吸い込まれもするし、ふいに豪速で飛んでくる隕石にぶつかりかけることもある。うかうかしていると無重力空間に投げ出され、あっという間に彗星と化してしまう、だから私たちは一切の不備もなく入念に「宇宙服」を身に着けて、心を決めてから広大な宇宙へと泳ぎ

      • きしかい幸福論

        まるで誰かのサプライズバースデイでクラッカーを鳴らす瞬間のように、「せーのっ」と声をひそめた岸くんは、少年のようにキラキラした目で周囲を見渡し大きく息を吸い込んだ。 「ハッピー、バースデイ!」 その後方、彼からすれば左後ろに、海ちゃんは立っている。彼の「せーの」に合わせて「ハッピーバースデイ」と口にした。まるで弾けたポップコーンみたいに勢いよくカメラの前に飛び出していく岸くんを、白い歯を見せながら目で追っている。そして、満足そうに戻ってくる岸くんを、よりいっそう優しい表情

        • 映画「ミッドナイト・ランナー」を鑑賞したうえで抱くドラマへの期待感など

          そもそもオリジナル版は「不純な動機で夜の街に繰り出したところたまたま事件に遭遇し、意図せず真夜中の街をあちらこちらと駆けずり回り犯罪を食い止めようとする」正義感溢れるがどこか頼りない若者ふたりの、偶然によって引き起こされる一夜を映したクライムストーリー。警察大学への入学シーンにはじまり、何もかも正反対のふたりがひょんなことから親しくなっていくなれそめから事件の顛末までを語るには少々スピード勝負なところが否めないけれども、二時間弱で描くにはまあちょうど良いプロットではある。

          私に春をもたらす「なのはなイエロー」

          彼の色は「ひまわりイエロー」と称されているけれど、私はこっそり、心のなかで「なのはなイエロー」と呼んでいる。髙橋海人くん。私にとって彼の存在はささやかな心の灯であり、誰よりも柔らかく私のの心を解きほぐしてくれる、まさに「春の歓び」みたいな人。 〝春〟といえば黄色がよく似合う。春の代名詞となりうる花も、考えてみれば黄色いイメージを持つものはたくさんある。タンポポ、スイセン、チューリップ。心を晴れやかにしてくれるポップなその色彩は、〝春〟という季節をわかりやすく忠実に、私たちの

          私に春をもたらす「なのはなイエロー」

          〝笑顔にさせる〟人でも〝笑顔にできる〟人でもなく〝笑顔を生み出す〟ような人

          「岸くんは、〝笑顔にさせる〟人でも、〝笑顔にできる〟人でもなく、〝笑顔を生み出す〟人なんじゃないかな」 「笑顔」がテーマである先日の少年倶楽部を見終え、私はふとそんなことを思った。 岸くんの周りは、いつだって笑顔に溢れている。彼らの微笑ましい話を聞いたり、何気ない一瞬を切り取った写真を眺めたりするたびに、私はついそんな景色を想像してしまう。 少年倶楽部のトークのなかで、神宮寺くんと永瀬くんが例に挙げてくれた楽屋でのエピソードもそうだった。彼の一挙手一投足で誰かが笑う。何で

          〝笑顔にさせる〟人でも〝笑顔にできる〟人でもなく〝笑顔を生み出す〟ような人

          エースが背負う「かばん」と、最年長が抱える「かばん」

          「変化」は「お守り」のようなもの、と彼は言った。 デビューして一年。MOREで取り上げられた特集の見出しは「Change it! 変わり、変わらず、変わらせず」。自分たちでは変わることも、変わらないことも、恐らく全く意識できなかったであろう躍動の一年を経た彼らにつけられたコピーは、非常に興味深いものだった。 「今の自分に満足していないからこそ、僕は常に『変わりたい』と思っています」 この時期、何度も提示されたであろう「変化」というテーマの中で、岸くんは淡々とそう語ってい

          エースが背負う「かばん」と、最年長が抱える「かばん」

          「その夜の侍」と岸優太

          意外だな、と思った。 2018年の夏頃、岸くんが最近観た映画として「その夜の侍」を挙げたとき、〝このひとってこんな映画も観るのか…〟と思わずため息が漏れた。 7年前、私は映画館のスクリーンでこれを観た。 (以下、アラサーがこの映画について記憶している徒然なのでスルーしてください) 妻を轢き逃げされた男と、轢き逃げした男。その一瞬に人生のすべてを狂わされた男と、とうに狂っているため何ひとつ変わらない男。愛憎のねじれ、綻び、ひずみ。二人の男が一本の線で結ばれたときに辿り着く終

          「その夜の侍」と岸優太

          不器用なピューリタンに愛の言葉を

          私にとって、岸くんの言葉はいつも哲学である。 どうにか紐解こうともがいても、彼は簡単にはその真意を探らせてくれない。プライベートの写真を載せながら「自分だけの宝物を見せちゃうみたいで、みんなと共有したくなかった。けど、見せる気になったので」と言葉にするように、自他ともに認める〝グループ一実生活がミステリアスな男〟であるように、彼は大切なことはいつも密やかに自分の心の奥だけにしまっている。私たちに見せようとすることはほとんどない。私たちはそれが現れてくれる貴重な瞬間を、ただひ

          不器用なピューリタンに愛の言葉を

          彼は、私以上に私なの。どんなもので作られていたって、私たちの魂は同じよ。

          He’s more myself than I am. Whatever our souls are made of, his and mine are the same. - 彼は、私以上に私なの。どんなもので作られていたって、私たちの魂は同じよ。 エミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」をご存じだろうか。今から約170年前イギリスで出版されたこの小説は、これまで何度も映画化され、「世界の三大悲劇」と評される言わずと知れた名作である。日本でも2015年に堀北真希、山本耕史主

          彼は、私以上に私なの。どんなもので作られていたって、私たちの魂は同じよ。

          目を覚ませ、たてがみを隠してる勇気あるはみ出し者よ

          ああ、うちの子、ついにやってくれたな。 映画館を出てなぜか笑みがこぼれた。心のなかで白旗を上げつつ、私はほくそ笑んでいた。何に対しての敗北宣言なのか、何に対しての勝利の笑みなのかはわからない。しかし、これまで大事に大事に温められてきたかわいい鷹が、隠していた立派な爪をついに世間に向けてひけらかしたのだ。 あっという間に完敗だった。同時に勝利でもあった。それ以上に私が言える事はない。 注意:以下、ネタバレしてますので注意。   ★ ★ ★ 「ブラック校則」は、映画とドラマ

          目を覚ませ、たてがみを隠してる勇気あるはみ出し者よ

          届くことのないラブレターを君に

          神宮寺勇太くん。きみは全くもってピエロみたいな人だな、と私はよく思う。 本人はピエロ恐怖症らしい。それなのに誕生日祝いの一言めからこんな喩えで申し訳ない。もしも彼がこんな祝福を聞いたらきっと卒倒するし全力で嫌がるだろうけれど、決してこれは否定的な意味じゃない。掬いきれないほど溢れて止まない彼への愛と尊敬の意味を込めて、私はあえてこんな書き出しではじめてみたのです。 神宮寺くんを「ああ、好きだな」と私が心を震わせるのは、決まって彼の奥ゆかしい「優しさ」を垣間見た時だ。 彼

          届くことのないラブレターを君に

          永瀬廉はどこか松本潤に似ている

          常々思っていた事をここでひとつ言わせていただくと、「永瀬廉はどこか松本潤に似ている」と思う。 そう言うと、たちまち罵詈雑言が飛んできそうだ。濃い顔が形容詞となった帝王と、すっきりとした顔立ちの永瀬廉。全然似ていないじゃないかとクレームが今にも聞こえてくる。 そりゃそうだ。見た目は似ても似つかない。私が言いたいのはそこではない。私が彼らは似ていると言いたいのは、彼らの奥底に眠る〝「好き」に対する素直さとひねくれ〟についてである。 こんな突拍子もない事を考え始めたのは、ここ最

          永瀬廉はどこか松本潤に似ている

          「守りたい」ひとの抱える花束がどうか色とりどりであるように

          「守るのが好きで、人を。守りたがっちゃうんですよね」 昨年の「RIDE ON TIME」という密着ドキュメンタリー番組の第一夜。彼は幼い頃から見てきた景色をぼんやりと眺めながら、おぼろげなようすでそんなことを呟いた。 彼は常に「守りたい」の欲求がつよいひとだ。その対象は、男でも女でも、小さな子どもでもおじいちゃんおばあちゃんに対しても変わらない。身近なひとも、オタクどもも、じぶんに関わるひとはみんな。どんな対象であれ、自分が守れるものは常に守っていたい、そういう考え方をす

          「守りたい」ひとの抱える花束がどうか色とりどりであるように

          岸くんは秋のにおいがする

          ワレモコウが庭で揺れているのを眺めながら、いつの間にかもうこんな時期なのか、と感慨深くなる。 九月の終わり。夏の色は一気に身をひそめた。風が冷たくなって空をどこまでも鱗雲が覆っている、なんだか気分がノスタルジックに沈む。大きく息を吸い込めばかすかに風のにおいがして、これが岸くんの言う「夏のおわりのサヨナラのにおい」なのかな、とも思う。 正解は知らない。風がほんとうにサヨナラと言ってくれているのかどうかすら、定かではない。 ふと、読み返してしまうコラムがある。 18年6月

          岸くんは秋のにおいがする

          これは必然的な Kishi-wazurai

          朝晩たっぷりと冷やされた、つんけんしたような澄んだ空気のなかに、ぼんやりとしたぬくもりの日差しが降り注ぐ秋の陽気が好きだ。歩き出して向かい風が吹けば晒された肌がひんやりするし、立ち止まって日差しを浴びていると身体はぼーっと熱くなる。 「Koi-wazurai」を聴いた。 言い訳するわけではないんだけれども、夏の終わりは個人的に忙しかった。それはもう大変に。仕事も、プライベートも。気持ちが常にざわざわしていて、よくあの時期をフラットな状態で乗り越えたなと思い返して自分に恐れ

          これは必然的な Kishi-wazurai