彼は、私以上に私なの。どんなもので作られていたって、私たちの魂は同じよ。
He’s more myself than I am. Whatever our souls are made of, his and mine are the same.
- 彼は、私以上に私なの。どんなもので作られていたって、私たちの魂は同じよ。
エミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」をご存じだろうか。今から約170年前イギリスで出版されたこの小説は、これまで何度も映画化され、「世界の三大悲劇」と評される言わずと知れた名作である。日本でも2015年に堀北真希、山本耕史主演で舞台化されている。
私が何故この作品を突然挙げたかと言えば、ついこの前ツイートしたばかりだが、是非岸くんを主演に迎えて「嵐が丘」を舞台化してほしい!という切実な願望が、ついに溢れて止まらなくなってしまったからだ。
岸くんのヒースクリフがとにかく見たい。
暇さえあればそればかりが常に頭をよぎっている。
【あらすじ】
ある日、吹雪の中で道に迷ったロックウッドは、「嵐が丘」という名の屋敷にたどり着く。屋敷は見るからに物々しく怪しげな空気を纏い、そこに住む夫婦と使用人もまた亡霊のように生気のない人間ばかりであった。戸惑うロックウッドであったが、行き場を失った彼は屋敷の主人ヒースクリフに一晩泊めてほしいと申し出、小さな使用人部屋に案内される。
何とか腰を落ち着けたところで、吹雪であるはずの窓の外から、女性の声が聞こえてきた。「ヒースクリフ、私よ」。驚き、叫び声をあげるロックウッド。慌てて駆けつけたヒースクリフは、窓の外に向かって何やら叫ぶと吹雪の中に飛び出していく。呆然とするロックウッドに、使用人のエレンは「あなたは、死者を呼び覚ますほど強い愛の力を耳にしたのです」と告げ、「嵐が丘」にまつわる昔話を静かに語り始めた………
ヒースクリフは、かつて、この屋敷に拾われた孤児であった。
当時「嵐が丘」の主人であったアーンショーが、行き場を失っていた彼を連れ帰り、同年代である自身の子どもたち同様に深い愛情を注ぎ育てたのだった。
「嵐が丘」の子どもはヒンドリーとキャシー。心の侘しいヒンドリーは、実の息子である自分と同じように扱われるヒースクリフを疎ましく思っていたが、妹のお転婆なキャシーはそんなヒースクリフをいつも励まし続けた。ふたりは仲睦まじく幼い日々を過ごし、やがてそれは互いに何にも代えがたい確かな愛情へと変わってゆく。
アーンショーが病に倒れ亡くなると、「嵐が丘」は器量の悪い跡継ぎのヒンドリーが主人となった。そこでヒースクリフは、彼から下僕のようにこきを使われ、日々むごい仕打ちを受けた。そんな悲惨な生活の中でも、キャシーとの愛を育み、生きる希望を見出だすヒースクリフ。しかし、年頃のキャシーは、ヒースクリフを愛する一方で、華やかな社交界にも密かに憧れを抱いていた。
ある日、裕福なリンドン家の舞踏会を覗いていたふたりは番犬に襲われてしまい、そこでキャシーだけがリンドン家に助け出される。数日間、リンドン家で手当てを受けることになったキャシーは、自分のいない「嵐が丘」でヒースクリフが虐げられることを恐れ、彼に「嵐が丘」を去るよう伝える。
やがて「嵐が丘」に戻ってきたキャシーは、以前とは違う淑やかなレディの風貌を纏っていた。令嬢としてのたしなみや作法を身に付けられ、夢に見た社交界の屋敷で華やかな日々にますます夢を募らせていた。
そこで彼女はヒースクリフが「嵐が丘」に残っていることにひどく驚く。ヒースクリフはキャシーを愛するあまり彼女を置いて去ることはできなかったのだ。しかしキャシーは困惑した。リンドン家に滞在している間に、親しくなった子息のエドガーから求婚されていたからだった。
困り果てエレンに相談するキャシー。「ヒースクリフと一緒になれば、私たちの人生はおしまいだわ」その言葉を聞いたヒースクリフは、愛し信じ続けてきたキャシーからの裏切りに心を痛め「嵐が丘」を去ることを決意する。
ただし、裏切りはヒースクリフの思い違いであり、キャシーの超越したヒースクリフへの愛は本物だった。「自分たちが一緒になれば一文無しで路頭に迷うだけ、でも自分がエドガーと結婚すれば、財産を手にし、ヒースクリフをこんなむごい虐げられた生活から救ってあげる事が出来る」と彼女なりに考えた故の選択肢であった。
しかし、時すでに遅く、ヒースクリフが消えたと知ったキャシーは慌ててヒースクリフの後を追う。彼女は嵐の中を彷徨い倒れ、再びエドガーに助け出される。
求婚を受け、ヒースクリフもいなくなってしまい、リントン家に嫁ぐことになったキャシー。様々な不安や恐怖を背負いながらも、エドガーの献身的な愛に触れ、キャシーは幸せで満ち足りた生活を送るのだった。
生活が落ち着いた頃、なんとキャシーの前に姿を消したはずのヒースクリフが突然現れる。別人のような身なりで裕福な紳士となった彼は、今や酒に溺れ自堕落な生活をしているヒンドリーから「嵐が丘」を買い取っていた。
キャシーは再会を喜び、ヒースクリフは今後は友人として付き合おうとキャシーの結婚を祝福するが、彼の中にはあれほど深く想っていたキャシーへの愛は消えるはずなどなく、深い執念が滾っていた。
魅力的になったヒースクリフに熱をあげたのは、エドガーの妹イザベラだった。彼女はヒースクリフの中にある義姉への愛憎を知りながら、また、ヒースクリフはキャシーへの復讐として、ふたりはキャシーとエドガーが止めるのもきかず強引に結婚する。
駆け落ち同然でヒースクリフの元にやってきたイザベラは、リントン家とは絶縁状態になってしまった。次第に冷たくなっていくヒースクリフにイザベラは精神的に追い詰められ、酒浸りのヒンドリーも含め、「嵐が丘」での生活は瞬く間に落ちぶれていった。
やがて、イザベラの元にエレンがやってきた。キャシーが病に倒れ、死期が迫っていると伝えにきたのだ。しかし、ヒースクリフからの愛を受けられず、キャシーへの劣等感を募らせる一方のイザベラは、彼女への暴言を吐き家へ戻りたがらない。その事実を知ったヒースクリフは、イザベラの制止を振り切ってリンドン家へ急ぐ。
エドガーの目を盗み、キャシーの元に近づくヒースクリフ。病に侵され床に伏したキャシーは、夫への愛と感謝を心に刻みながら、ヒースクリフと過ごした幼い日の想い出を回顧していた。
キャシーはヒースクリフの面会に喜ぶが、彼は死の淵にある彼女に対してこれまでの恨み辛みを口にする。そんな彼に、キャシーは、彼が「嵐が丘」を去った日、彼が聞きそびれた彼女の本当の気持ちをやっと明かすことができた。ヒースクリフの腕のなかで、想い出のふたりの城を眺めながらキャシーは息を引き取った。「あのお城で待ってるわ」という言葉をヒースクリフに残して……
エレンの話が終わるころには、すっかり吹雪は止み、朝が訪れていた。そこにエレンと同じく長らく彼らに仕えてきた老医師が、血相を変えて「嵐が丘」に飛び込んでくる。ヒースクリフが誰か女性と岩山に向かって歩いて行ったのを見かけたと言うのだ。しかし、よくよく見ると彼はやはりひとりだったと。それを聞いたエレンは微笑み、「ふたりは、やっと一緒になれたのですよ」とロックウッドに語りかけるのだった。
長い、あまりにも長かった。1939年版、「ローマの休日」で有名なウィリアム・ワイラーが監督した映画作品です。
原作とはかなり趣が異なる。原作はかなり熱のいった大河小説であり、物語の主軸は滔々と流れるヒースクリフの復讐譚である(でもそれが単なる復讐譚でないところが、名作と言われるゆえんであると思う)。それがこれだけドラマチックで悲劇的なラブロマンスに姿を変えられたのはいかにも「ローマの休日」や「ファニーガール」を世に送り出したワイラー作品といったところ。
さて、私は岸くんにヒースクリフを演じていただきたいので、ここは〝原作に忠実な復讐の鬼と化したヒースクリフ〟でなく、〝憎悪に姿を変えてもなお愛を貫いたワイラー版ヒースクリフ〟を推したいと思っております。
ちなみに原作は彼ら主人公の二世まで巻き込んだ壮大なストーリーなのだけど、映画版はいくつかあって、きちんとそちらも描かれた作品もありますのでよければご覧になってください。昔の文学作品なので、セリフやフレーズがとにかく美しいです。
Q1. なぜ岸くんをヒースクリフにしたいのか。
私の中でヒースクリフという男は、どことなく〝ジェームス・ディーン〟の匂いがするんですよ。こういう不良っぽい粗雑な感じがするくせに純粋な愛情に飢えている感じが「エデンの東」だし、下僕から成り上がったにもかかわらず結局邪険に扱われ、不遇な最期を遂げる空気がどことなく「ジャイアンツ」だし。
そして〝ジェームス・ディーン〟といえば、私はかねてから岸くんに「やってくれ~、やってくれ~」とひたすらに念力を送っているわけですが、今のところ全くご本人には届いていません(※届くわけがない)
昔のオタク話に話がそれて申し訳ないのだけど、かつて嵐の末ズコンビがジェームス・ディーンの作品の舞台をやっていてね。それも、ニノが「理由なき反抗」で松潤が「エデンの東」だったんですよ、これもうまさにって感じじゃん。ぴったりじゃん………「理由なき反抗」のジムは「DREAM BOYS」のレビューでも書いたんだけどどことなくユウタに似ていたし……
と説明し始めると延々と語り続けてしまいそうなんですが、とにかくそういう親和性のサークルの中にぴったりはまるんです、岸くんとヒースクリフって。
さらにまた、私は岸くんが演技をするならきっとメディア媒体ではなく舞台向きだよなあと常々思っていて。そりゃあ大きなスクリーンいっぱいに映る岸くんを観たいし、茶の間でいつでも何度でも岸くんを観ていたいけれど。
岸くんの演技の型っていうのは、私は舞台でこそ輝くんじゃないかなと思っている。と言いつつ、別に舞台オタクではない私は足繁く舞台やミュージカルに通っているわけではないので、理路整然とした根拠ある定理ではなく私の完全なる思い込みでの発言である。
Q2. 「嵐が丘」という作品の魅力はなんなのか。
正直、このヒースクリフという男もキャシーという女も、そもそも「嵐が丘」という作品自体、賛否両論は分かれます。というかむしろ、否のほうが若干上回る感じの評価が多いです。
それはこの作品をどういう角度で観るかっていう視点によると思うんだけども、決して「感情移入」して観る作品ではないんですよね。酷評を読むに、必ず書かれているのが「キャシーの旦那以外みんな狂ってる」「愛する人に裏切られただけでここまでできるのが怖い」というようなもの。
確かに自分に置き換えてみると、理解できない部分だらけです。文化や時代が異なることを配慮しても、人間に対してできるとは到底思えないようなむごい仕打ちだったり、復讐や愛のために他人を道具のように利用したり、自分がキャシーやヒースクリフの友人だったら平手打ちかましてるな、とは思うのだけど、そんなこと言ったら元も子もない作品なんですよね。
この作品の味わい深さは、もっともっと根元の深いところにある。自分には理解できない、出合ったことのない強烈な愛情、その捩れ、歪み。それを想像したり、新たな発見をしたりするところにこの作品の面白さがあると思う。
なんと言ってもこの作品の名ゼリフは、キャシーがエレンに相談するシーンの「私はヒースクリフなの」(反対かも、ごめんなさい、ニュアンスです)である。調べていると、原作にあるセリフの直訳は冒頭の通り、「彼は、私以上に私なの。どんなもので作られていたって、私たちの魂は同じよ」というセリフを口にしている。
魂レベルの愛情って、もらったり、与えたりしたことありますか、って話です。
さらに私がすごいなと感じるのは、「〝彼〟は私以上に〝私〟なの」というひと言。「私は彼である」じゃなく、「彼は私である」と言い切る。主語が相手なのに断定。自分ではなく、相手が何たるかを言い切れるというところに強く、深く、切っても切れないふたりの関係性を感じて言葉を失ってしまう。
私はこのひと言に出合えるだけでこの映画を観る価値はあると思うし、このひと言に象徴される物語のすべてが、この世のすべてを超越する愛でできているのじゃないかと思う。
また、ワイラーが手掛けたこの作品は、原作とは異なりロマンチックなエンディングを迎えている。王道なハッピーエンドではない、キャシーはヒースクリフに恨まれながら死んでいったし、ヒースクリフは彼女が天国へ逝かず、亡霊として自分を呪ったままこの世を彷徨えばいいと願った。
こんなおぞましいラブロマンスの結末があるだろうかと思うけれど、こうしたラストの中に序盤からなにひとつ変わらないお互いがお互いに持ち続けてきた愛の形が見える気がして美しいと思う。そして切ない。
(ちなみに不朽の名作「ローマの休日」もラストが実り報われる恋ではないからこそ、今も人の心を打つ美しい作品であるからして、ワイラーは当時には珍しく咲かずに散る切ない恋模様を決してバッドエンドにすることなく描く天才だったのだろうと思う)
Q3. 岸くんがヒースクリフを演じて何が見どころなのか。
ヒースクリフってとにかく魅力的なんですよ。悪い。賢い。ハングリー精神。なのに純でひとりの女性を一途に想い続ける。それが良いか悪いかは別として、得てして女性はこういう男性にコロッと引っかかったりします。 作品の登場人物としてみれば恐ろしく気味の悪い人物なのだけど、ある程度現代の男性に脚色して実生活に置き換えてみれば、たぶん人知れず女性を虜にさせる男だと思うのです。
そこで、最近〝色気〟と〝少年っぽさ〟を見事に使い分ける岸くんに、正当ではない魅惑のフェロモンをぷんぷんさせたヒースクリフを演じさせたいのです。
孤児として育ち、薄汚れた少年。自分が愛するキャシー以外世界のすべてを嫌悪しているような、そういう鬱屈した感じの少年像を、岸くんに演じてほしい。
次にそれをキャシーと語り合う微笑ましいシーン。これは原作にはないと思う。岩場に並んで腰をおろし、自分が何者かと落ち込むヒースクリフに「あなたは王家の隠し子よ!ここはお城なのよ!」と励ます。その長けた想像力に子どもらしいあどけなさを見せながら、ふたりの関係が非常に愛らしく感じられる。
キャシーのセリフを勘違いし、「嵐が丘」を去るヒースクリフ。嵐の夜。絶望に堕ちた美男子というのはただただ芸術品だと思う。
ラスト。死を待つキャシーと想いを語り合うシーン。これだけ復讐の憎悪に苛まれながら、美しいラブロマンスが画面いっぱいに広がっている。そこには悲恋だけではない、彼らの絆にしか許しえない憎しみと恨み、苦しみが、美しくも爽やかに広がっている。愛する女性への慕情と憎悪を、あの綺麗な瞳いっぱいに映し出す岸くんが見たいなあ。
世界を目の敵にするような薄汚い少年が大人になっていく様。そして、純粋な愛情に憎悪が注ぎこまれ、復讐に燃える男の色気、熱情。そういうふり幅の大きさを舞台の上で繊細に、そして大胆に演じきれるのはきっと岸くんだと思うのでそういうのを見たい。ヒースクリフになった時の、岸くんの目の輝きとよどみを目に焼き付けたい…………!
こういう理由でまあ、私は、岸くん主演の舞台「嵐が丘」を観たいなという願望に至りました。きっと古き良きイギリス時代、ボロ切れみたいな農民衣装も畏まった貴族衣装も、ばっちり似合うと思うのです。好きなのです。たまらんのです。
岸くんの恋愛ベースな作品もあまり見ないし、この引き出しいっぱいなヒースクリフという役を演じることは岸くんにとって大きな意味を持つと思う。ここは是非、王道不朽の名作舞台化が岸くんの魅力ぞんぶんに引き出せると思いますので、どうぞよろしくお願いします(誰に)
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