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物語を旅しよう。「村上春樹ライブラリー」
なかなか遠くへ出かけることが難しくなった時期、本棚から取り出してきたのが、村上春樹さんの紀行文を集めた本だった。読みかけだったもの、ずっと昔に読んだもの。本で旅の気分を味わった。
2021年10月1日、村上さんの母校である早稲田大学に、「早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)」が開館した。開館前から気になっていた場所を、昨年訪れることができた。
小さな奇跡
昨年末、所用のため東京方面に出かけることになった。行きたい場所として真っ先に思い浮かんだのが「村上春樹ライブラリー」だ。サイトを見ると、入替制で事前予約が必要。ほぼ連日埋まっている。私が東京へ行く時期はまだ先だったので空いていたが、旅程をはっきり決めていなかったので後回しにした。数日後、希望の日程を見ると既にいっぱいになっている。
行けないとなると行きたくてたまらなくなるもの。さっさと予約しておけばよかったと自分を恨む。悔しいので、友だちや家族にぶつぶつと嘆く。毎日のように空きが出ないかサイトをチェックするが変化はない。「村上春樹ライブラリー」を特集した雑誌を買ったものの、行けないと思うと悔しくて、読まずにいた。
でも私はかすかな希望を抱いていた。直前になって、ふっと空きが出ることがあるのだ。急に行けなくなった人がキャンセルするのかもしれない。他の日は予定があるので、私が行ける日時はピンポイントで、滞在最終日の午前中だけ。東京に着いてからも状況は変わらず、あきらめて何か用事を入れようかとも思ったけれど、そのまま予定をあけておいた。
明日は地元に帰るという日の夜、サイトを開くと、1枠だけ空きが出ている。 急いで予約した。スマホに見入っていたので、待ち合わせていた友人たちが来たのにも気づかないほどだった。
メタセコイアは今も
当日は、少し早めに出かけることにした。早稲田大学は私の母校でもある。地下鉄駅から外へ出て、かつて歩いた道を辿る。昔と同じファストフード店、以前はなかった見知らぬ店、変わったもの、変わらないもの。あの頃ケーキを食べるのがささやかな贅沢だった喫茶店が、いまもあるのを見つけてうれしくなった。正面に穴八幡宮が見えてくる。道を曲がり、私が通っていた戸山キャンパスに行ってみた。
門を抜けると新しいきれいな建物が見え、ずいぶん雰囲気が違うけれど、まっすぐに延びるスロープとメタセコイアが並ぶ様は、変わらない。青い空に、赤く色づいた梢が映える。「メタセコイア」という名を覚えたのは、キャンパスにこの木があったからかもしれない。スロープを登ると、カフェテリアが見えてきた。
子どものころから本が好きで、文章を書くことも好きだった私の夢は作家になることで、村上さんはじめ多くの作家が卒業していたことも、この大学を目指した理由の一つだった。
戸山キャンパスを後にし、学生に混じって歩いていくと、昔と変わらぬ大隈講堂の姿が見えてきた。キャンパスの中を大隈重信公の銅像に向かって歩きはじめてから、目指す方向が分からず、サイトを確認すると、演劇博物館のすぐ手前だった。
校舎をリノベーションした建物の入口はトンネルのようになっていて、「村上春樹ライブラリー」と書かれたプレートが見える。同じように開館を待つ人たちが、写真を撮ったり、周囲を歩き回ったりしていた。この日は晴れて暖かく、雲のない空は青く、黄色く色づいた銀杏の葉が鮮やかだ。開館時間になり扉が開き、検温を済ませて中へ足を踏み入れた。
物語の中へ
建物の中へ入ると正面に階段があり、両側は本棚になっていて、上部がアーチ状につながっている。このライブラリーを象徴する「階段本棚」だ。入口には、「物語を拓こう、心を語ろう Explore Your Story, Speak Your Heart」という村上さんの言葉が掲げられている。
向かって左手には村上さんの本が、著書、翻訳、取り混ぜて並び、世界各国で出版された本も置かれている。村上作品はだいたい読んだと思っていたのだけれど、見たことのない本、知らない本がいろいろ見つかった。村上さんが翻訳した本は、ほとんど読んだことがない。写真撮影できたので、ギリシャが好きな私は、ギリシャ語訳のコーナーを写真におさめた。
奥の壁には『羊をめぐる冒険』に出てくる羊男のイラストが描かれていて、順番に記念撮影をする人たちがいる。頼まれてシャッターを押し、私も写真を撮ってもらった。ここにいる人たちは、みんな村上さんの作品や本が好きなんだろうなあと思うと、言葉を交わすわけではないけれど、親しみが湧いてくる。
1階には村上さんのレコードが飾られたオーディオルームもあり、ジャズが流れていた。
2階の展示室では、建築家・隈研吾さんによるリノベーションの過程を紹介した展示が行われていた(「建築のなかの文学、文学のなかの建築」)。1階へ戻り、階段本棚へ。村上さんの本とそれにつながるテーマの本が並び、反対側には国内外の作家や翻訳者などが選書した本も置かれている。階段を背に、スタッフの方に写真を撮ってもらった。
本好きにはたまらない場所
ここにある本の多くが展示されているだけでなく、それぞれのエリアで読むことができる。階段で、一人用の席で、テーブルで、思い思いに本を読みふける人の姿が見える。
地階にはラウンジやカフェがあり、トイレの表示もなんだかオシャレだ。かつて村上さんが経営していたジャズ喫茶で使われていたというピアノが置かれている。カフェには後から行くことにして、既定の時間をめいっぱい館内で過ごした。
いろんな本に触れることができ、村上さんのファンはもちろん、あまり読んだことのない人にも楽しめると思う。私は作家が愛したコーヒーのエピソードを集めた本が気に入って、しばらく読み進めた。他にも読みたいものがたくさんあったので、気になる本の写真も撮っておいた。
1時間半も持て余すかと思ったのだけれど、あっという間に時間が過ぎてしまった。外へ出て流線型のトンネルに沿って歩き、カフェの入口へ向かう。「橙子猫-ORANGE CAT-」という名は、村上さんの命名だという。予約不要で利用でき、学生たちが運営している。
パニーニとコーヒーを頼み、テーブルへ向かった。コーヒーとサンドウィッチは、村上作品によく登場する食べ物。同じようによく出てくるドーナツも気になるので、テイクアウトした。
カフェからは村上さんの書斎が再現されたコーナーが見える。写真を撮ってほしいと声をかけられたのは、日本の大学に留学中のトルコ出身の女性だった。村上作品が好きなのか尋ねると、もちろん、と返ってくる。私も写真を撮ってもらい、「よい旅を」という言葉で別れた。
もう少し辺りを歩き回りたかったけれど、飛行機の時間が迫る。青空を背景にした大隈講堂の写真を撮り、前日に会った学生時代の友人たちのグループLINEに送ると、「いい天気でよかったね」とあたたかい言葉が返ってきた。思い出の喫茶店は、次の機会に訪ねよう。
『遠い太鼓』に憧れて
私が初めて村上さんの本を読んだのは、高校1年生のとき。本好きな友人が、デビュー作の『風の歌を聴け』を貸してくれたのだけれど、さっぱり良さが分からなかった。大学では日本文学を専攻したので、いくつか他の小説も読んでみたけれど、やっぱりよく分からない。そんなわけでちょっと苦手意識を持ったまま、大学卒業後はあまり手に取ることがなかった。
このnoteを一緒に作っているNorikoとギリシャ・ミコノス島を旅した時、この島のことが書いてあると教えられ、帰国後、『遠い太鼓』という紀行文集を読んだ。私がギリシャを長く旅してみたいと思ったのは、村上さんがギリシャで暮らした時のことが書かれたこの本を読んだことも影響している。
それから、『雨天炎天』『もし僕らの言葉がウイスキーだったなら』などの紀行文を読み、小説も読むようになった。私はハルキストを名乗るにはまだまだだと思うのだけれど、今では新刊を楽しみにしている。Norikoには笑われるけれど、私の紀行文のお手本は村上さんだ。思えば旅に出れないから旅のnoteを作ろうと思ったのも、村上さんの紀行文を読み返した影響があるかもしれない。
以前、私の住む町で、村上さんの朗読会が開催された。抽選だったがなぜか私は絶対に行ける気がして、自信満々で応募した。ところが落選。その数年後、再びイベントが開かれたらしいのだが、この時は後から情報を知り、悔しい思いをした。
村上さんがDJを務めるラジオ番組『村上RADIO』も聴くようになり、それまでイメージできなかった村上さんの声も知った。昨年、ラジオ番組の主催コンサートをライブ配信で見て、村上さんの朗読を聞いた。「村上春樹ライブラリー」では、私の好きな作家の一人である小川洋子さんと村上さんの対談もあったそうだ。
いつの日か、村上さんの姿を目の前にして、ご本人の声を聴き、本にサインをもらいたい。その時はどの本にしよう、やっぱり思い出の『遠い太鼓』がいい気がする。ライブラリーで初めてハードカバーの本を見た。中古で手に入れようか、それとも少し古びたこの文庫本がいいか、あるいは他の本にするか、と予定もないのに考えてみる。
「村上春樹ライブラリー」には、村上作品の熱心な読者であるNorikoと行きたかった。少し先になりそうだけれど、次に行く時は一緒に行けたらいいなと、早くも再訪を考えている。著作一覧を見て、まだ読んでいない本を探し、自宅の本棚を眺め、もう一度読みたい本を取り出そう。本の中には、違う世界が待っている。
▼「村上春樹ライブラリー」の情報はこちら
早稲田大学 国際文学館(村上春樹ライブラリー)
▼「旅と本」についての記事はマガジンにまとめています。
(Text & Photos:Shoko) ©️elia
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