時間が有限だとしても 私はついつい無駄遣いしてしまう 無駄に消費した時間の中で得られる不思議な満足感は 時に訪れる焦燥感よりもずっと大きい 無駄を減らすのが主流のこの世の中で 少しでも無駄な時間を使うことで何かに抗ってみたい
熱く込み上げる感情に内側から抵抗している自分がいる。 抵抗が外れる瞬間はその場の雰囲気、相手、状況によって異なる。 自分の中のもう1人の私が、そこをかぎ分け瞬時にブレーキを緩める。 溢れ出す感情を抑えるために、いつもの私が必死に調整する。 私たちの関係性はそうやって保たれていたみたい。
死が身近でなくなり、 エンターテイメントとして鑑賞され、 グロテスクなものだけが消費される 欲しい欲しい欲しいと求められるのは 熱く流れる醜い欲望 私もあなたも一枚めくってみれば きっと現れるのは同じ肉の塊。 見せて欲しいと思うのは私の方だけかもしれない きっとあなたはそんなところまで見たいとは思わない。 それでも私が求めてしまうのは、私の方がずっとずっと欲が深いから。 それでもあなたは私を求めてくれるのなら 一緒に落ちるところまで落ちてみたいと思う時だ
本当に欲しいものが手に入らない。 そんな時にどこから何を絞り出せばいいのか。 必要なことと不必要なことと。 溢れる気持ちを抑えるために。 欲望のかけらを外の世界で見つける。 そこにある小さな片鱗は 私の中には簡単には収まらない。 複数ある欲望のかけらは合わせたとしても一つにはならない。 本物の欲望にたどり着くためには誰よりも高く高く登っていかなければならない。 でも自分の実力が足りていないこともわかるから 登るペースは自分なりに調整しているんだと思う。
自由になるために必要なことが何なのか。 どこまでも行ける気がするのに、どこにも行けない自分の姿。 自由になれないのは現実の身体のせいなのか、 それとも実態のない精神によって抑制されているのか、 答えを探すためにまた言葉を紡いでいるのかもしれない。 どこかでまた口を開いて言葉をつむぐこと 両手を使って文章を書き連ねること どちらも同じことのようで、何かが違う。 両手が動くリズムと、口が滑る感覚。 どこまでが確実なものでどこからが不確実なものなのか。 言葉のリ
自分の書いた文章を読み直す。 綺麗で毒のない文章。 不思議と心地の良いリズムがそこにあり。 生の感覚が呼び覚まされる。 自分が少しだけ自由になった感覚と まだまだ不自由な部分があることと 遮るものがなくなる日が来るまでに、自分の感覚を高めるために ここにまた文章を書くことが1つの糧となるように。
また文章を書きます。 私にとって、日本語を紡ぐということがどれだけ意味があることか。 これまでの文章を読み直して改めて感じました。 私の中に溢れる思いを丁寧に形にすること。 それを疎かにすることがどれだけ勿体無いことだったのか。 読まれること、注目されること、ではなく自分自身が表現すること、形にすること。 虚構に惑わされず、自分の中の現実を形にすること。 現実と現実が混ざり合うのは人と人とが触れ合う瞬間だけ。 それ以外のことを求めない、自分の鼓動をそのままに
そろそろお別れの日が近づいてきたようです。 何かが変わったようで、別に何も変わっていないようにも感じる。 自分が今ここに存在しているという感覚が「当たり前」と感じられるようになったのはいつからだろう。 そこに存在するには「意味」が必要で、何かに駆り立てられるように行動をしていた日々がまるで遠い過去のよう。 「ただあること」 それは「ただそこにいる」だけの人と会い続けなければ気づけなかったかもしれない。 私はそこに1人ではたどり着けなかった。 でも、今の自分は「た
すぐに口が悪くなっちゃうんだけど、 それって本当はたくさん期待してる裏返し。 私にできることはもっとあるし、 みんなにできることももっとある。 もっとたくさんの人と交流できるようになりたいな。
自分が文字を紡ぐときに生じる不安がどこからきているのか、 それは今も完全にはわかっていない。 ただ、わかるようになったことは「文字を書く」ことは空想と現実が衝突する瞬間の1つだということ。 私の中にあるものが、文字になった瞬間に現実のものになる。 それを目にすることで幻滅することもあれば、その美しさに酔いしれることもある。 私にとって自分の中の空想は、甘美で居心地が良く、この上なく快楽が得られるものになっている一方で、突然追い立てられる恐怖心や誰かを壊してしまうよう
私たちの周りにあるものは全て現実とのつながりを持っている。 でも私たち自身は、ただ存在するだけでは空想の世界の産物である。 何にも触れず、周囲との関係を遮断すれば、私たちは空想の世界の中で生き続けることができる。 だけど、私たちはそれを選ばない。 現実の世界と触れ合うことを選ぶ。 そうやって私たちは少しずつ大人になってきたはずだ。 そして自分が空想の世界の住人であったことをすっかり忘れてしまう。 空想の世界を持ち続けているはずなのに、自分は現実の中を生きていると
気がつけば2ヶ月もの間、私は文章を書く作業を行なっていなかった。 正確には「自分の思い」を書く作業を怠っていた。 ただ作業として文書を書くことがこの2ヶ月間もずっと私は求められ、それに応じ続けていた。 そこに感情はなく、ただ受け取ったものをお返しする。自分の感情は置き去りにして。 別に苦痛も伴わない。私には十分な休息の時間もあったし、好きな活動を行う時間もあった。 私は自分の中身を文章で綴ることを求めながら、それが途方もなく労力が必要な作業だとなぜか感じていて、すぐ
共有や共感が幻想に過ぎないと思っていたのは、 世界の捉え方が根本的に違うことに薄々気づいていたから。 誰にもわかってもらえない。 誰とも共有することはできない。 でも、私は世界からたくさんのものを受け取っている。 私にしか感じられないもの。 私だけが受け取っているもの。 それを形にする努力を怠っていた。 全てを共有して欲しいというのは私のわがまま。 一部でも私が感じた何かを受け取ってもらえるなら、 私は発信を続ける意味がある。 私が世界から受け取ったもの
あの青い海から生まれ出た生き物が、 目には見えない電子の海に戻ろうとしている。 電脳世界とはよく言ったもので我々の世界はもうすぐ現実の姿を失う。 インターネットに無限の可能性を見出した人達が何人もいる。 彼らは生物としてのヒトがやがて帰る新しい海、母の姿をそこに見出したのだろう。 文字列でコードされた母の姿は目には見えないが確かに存在する。 そこに温もりを見出せない人々は次の世界に進めない。 肉体に留まることが最後に残る不自由だとしても、 不自由なまま生きるこ
今回は普通に日記のようなものを書いてみます。 現在私は、社会復帰の前段階として、「居場所を提供するサービス」のお手伝い業務を始めています。 「居場所の提供」ってそんなに難しいものでないと思っていたのですが・・・。 これがかなり難しい。 というのも、新しく来た私は「その場所」にとっての異物になってしまい、「私自身の居場所」はまだその中にありません。 留守番で他のスタッフさんの代わりにただ座っているだけでも利用者さんを怒らせてしまうことがあり、「ただ居る」ことの難しさを痛
「ことば」は一定のリズムと響きを持っている。 これは「声に出すとき」も「文字に表すとき」も同様に現れる。 声に出すときには、抑揚や音程、さらには文脈はコード進行のように「ことば」に彩りを与える。 文字に表す作業は譜面を作ることに似ている。頭の中に流れる旋律をスコアの線上にに並べていく。 歌うことと曲を作ることが同じ作業でないように、話すことと文章を書くことには違いがある。 鼻歌を自然と口ずさむように、ことばが勝手に口から溢れることもある。 その一方で、作曲や文章を