『小説:変身』死とは、そして生きるとは。
脳移植。
未だ世界でも、執刀されていない移植手術。それが脳移植です。
2018年中国にてイタリア人医師のカナベーロは生きた人間の脳移植の実施を発表。
患者の名前は、ロシア人のスピリドノフ。脊髄性筋萎縮商の難病を抱える患者でした。
しかし、手術の申し入れはスピリドフによって撤回され中止となりました。
生きた人間の脳移植はまだ世界で先例がありません。
しかし、脳移植を疑似体験できる著作があります。
それが、東野圭吾氏の『変身』です。
脳移植手術によって、人格が変わる主人公を描いた作品です。
人が人として、生きるとは何か、死とは何か。
脳を移植してもなお、生きる必要性があるのか。
ということを問いかけてきます。
本日は、小説から考えたことを書いていきます。
■物語
本書は”脳移植”をテーマにした作品になります。
ある事件で脳に重症を負った成瀬純一という主人公が、脳移植手術を経て、生還します。
体や記憶に何の支障はないものの、徐々に主人公の純一は、移植されたドナーの脳に意識を支配されていきます。
もともとは温厚で優しい絵描き好きの主人公が、凶暴で残忍な人格へと”変身”していきます。
大好きであった絵描きもできなくなり、大好きだった映画に全く興味を持たなくなります。
そして、付き合っていた彼女に対する違和感を感じはじめ、好きという感情どころか、ついには殺意さえ芽生えてしまう。
ドナー提供者の正体をつかみましたが、それでも犯されていく自分の意識、
ついに人への暴力を振るうようになり、意識だけでなく、完全な異常者へとなりはてます。
ドナーに自分自身をのっとられる、自分が失われると覚悟した純一が、最後に下した決断とは。。
■小説は麻薬
僕は、普段は小説は読まない方です。
嫌いなわけでもないですが、本を読む目的が”楽しむ”や”感動する”という感情的な側面ではなく、
”学ぶ”や”新しい知識を得る”という、論理的な側面に多少偏りがあるからだと考えています。
しかし、いざ小説を読み始めると、
小説は麻薬
です。のめりこんでしまいます。悪い意味ではないです。
本書も350ページを越えますが、2日で読み終わりました。宮部みゆきの『火車』も1日で読んだのですが、
とにかく、感情移入をしてしまい客観的に読めません。
特に、本書に関しては、主人公の性格の変化に合わせて、読んでいる僕自身も意識的・心理的な変化を感じてしまい、
自分でも少し自分が怖くなりました。
小説は、麻薬的な要素があると思います。
なので、時々で十分です。
では、本題に入っていきます。
■人格を失ってまで生きたいか。
冒頭でも述べたように、人類において生きた、生きている人への脳移植の例はありません。
しかし、実際にそういった研究が行われているのも事実。
倫理面の批判はあるものの、将来的に脳移植が行われる可能性は決してゼロではありません。
実際に動物実験において頭部移植は既に成功しています。人間の好奇心と欲に恐怖すら抱きます。
つまり、着々と人類はその歩みを進めています。
そして、本書の主人公の成瀬は、徐々に成瀬純一という自分の人格を失っていきます。
「あんたに想像できるかい?今日の自分が、昨日の自分と違うんだ。そして、明日目が覚めた時に、そこにいるのは今の自分じゃない。」
俺は今、自分自身をコントロールすることに全精力を使わなければならない状態だった。突然嵐のようにやってくる激しい感情の波に、決して押し流されてはいかない。それは、やつに敗北することを意味する。
脳移植、そしその奇跡的な生還によって、この世に再び生を取り戻す。
しかし、仮にその脳がドナーの脳によって侵食される。もしくは、ドナーの人格に切り替わるとしたら、
それでも生きることを望むでしょうか。
本小説では、主人公が暴力的、殺戮的になるように意識が変化しました。
では、逆の場合はどうでしょう。
仮にドナーの人格が、誰からも尊敬されるような最高の人格なら??
僕らは、喜んでその脳を受け入れ新しい人生を歩んでいくのでしょうか。
仮に、ドナー脳の選択肢が与えられいたら??
存在が死ぬことよりも、人格を失ってでも生きることを選ぶのでしょうか。
そもそも、人格を失って生きることを”生きている”と定義できるのでしょうか。
成瀬純一という存在は確かに生きているものの、成瀬純一の人格は既に死んでいて、ドナー脳の意識が支配的な時に、
成瀬純一は本当に生きていると言えるのか。
本書は、
”生きる”とは、”生きている”とは何か?
ということを読み手に語りかけます。
そして、僕は感じました。
心肺停止した時が、本当に”死”なのか??
*以降は本の内容を明かしますので、まだ読んでおらず読みたい方はここでストップしてください!
■”死”は客観的に定義され得るのか。
呼吸が止まる、心臓が止まる、脳が止まる。
僕らは、その時に”死”というものを認識し、そこに定義します。
しかし成瀬純一は最後、執刀医にこう訴えるのです。
廃人と言っても、それはこの世界でのことに過ぎない。この世界で生きることはできなくなっても、無意識の世界で成瀬純一は生きられるのです。その証拠に彼は消えずに、こうして俺を呼びに来てくれました。
その世界は決して小さくなく、別の世界が開け、別の人生を歩むことができるのだと信じます。また、仮に手術がうまくいかずに死んだとしても構わないのです。心から愛してくれる女性を殺そうとするような人間として生きるより、その方がましだ
そう言い放った後、
成瀬は自らの脳を弾丸で打ち抜きます。
これを僕らはどう捉えるべきなのでしょうか。
成瀬は本当に死んだのでしょうか、医学的には死んだと言えます。
ただ、彼は”生きた”、”生きること”を選んだという感覚を僕は持ちました。
医学的な死をもってしても、人は生きる、生きている、ということは有り得るのではないかと感じたのです。
亡くなった人が、今を生きる人の中に、生きる。
亡くなった人が、家族や社会の中に、生きる。
そう定義することは、間違いではないような気がしてきました。
そう考えたときに心肺停止を、赤の他人がその人の死と定義することは、
もしかしたら間違い、更に言うと傲慢なのではないでしょうか。
僕らは、幸せに生きたい、死ぬときに人生に満足して最期を迎えることを望みます。
しかし仮に、医学的な死を迎えたとしても、人は生き続けることができる。
そう考えた時に、人はどのように人生をデザインするでしょうか。
何かが変わるような気がしました。
それは、家族の中にあなたが生き続けるということかもしれないし、社会の中に生き続けるということなのかもしれません。
だとしたら、どのように、そして何に自分の息吹を吹き込みたいのか。
そう考えると、視野が広がり、別の視点で人生を見つめ直せるような気がしたのです。
自分の死から離れることで、自分を越えてもっと大切なことや価値のために、自らを捧げるような気がしませんか。
僕は、そんなことをこの小説から教わったような気がします。
要は、
本当に良い小説なので、是非読んでみてほしいということです!
読まれた方は、是非コメントお待ちしています。
本日もありがとうございます。