山口照美
忘れっぽいので、読んだ本や観た映画の感想をメモしておくために。昔、黒猫にちなんだハンドルネームで、9個のブログで書き散らしていた過去記事の再掲なども。
映画・ドラマ・アニメ・音楽・漫画・本の感想の書き散らし
子育て世代でもある生野区長から毎月発行している『いくみん子育て通信』『いくみん教育だより』『生野区中学生NEWS』を、新型コロナウイルス対策で配付できないため、WEB版で発行します。 『いくみん子育て通信』のバックナンバーはこちら>>https://www.city.osaka.lg.jp/ikuno/page/0000421989.html
生野区の課題をコツコツ解決する積み上げ型ではなく、「こうなったらいいな」という未来から逆算して、今やるべきことを推進していく。区長としての考えや、役立つ情報を綴っていきます。
進学塾・公立小学校・教育委員会の3つの立場を経験し、今も教育行政に関わる立場としてしつこく「経済格差を教育格差にしない」方法を考え続けるノートです。あと学校再編についても、ときどき書きます。
仕事の合間に、LINEがひゅっと飛んできた。父親の名前だ。前のやり取りで「2度と連絡しない」と伝えたのが半年前。どうせ金の話に決まってる。未読無視。 家に帰り、開く。 世の中のクズにたかられる人に啓発するために、あえて曝す。私に縁を切られかけているので「貸して」とは書かず、こちらの罪悪感を煽ってくる。 いやいやその前に私と妹に借りた数百万の返済は?と投げる。 だから、どうせいっちゅうねん。「パパ(癪だが小さい頃からこの呼び方で直らない)かわいそう!お金送るわ
Mrs.GREENAPPLEの『ニュー・マイ・ノーマル』が好き過ぎて、吐き出さないと眠れない。今から書く。 スタジオ収録も今までのライブ映像も全部いい。特に活動再開ライブ「Utopia」のアンコールは、「僕らのあたらしい常識」に向かう決別と決意を感じさせて、泣ける。 花びら降るスクリーンを前に歌う、目をほんのり赤くした大森元貴を観て、息子が「プリキュアの変身シーンみたいだ」と言った。 我が家で「プリキュア」は概ね「ハートキャッチ!プリキュア」を指す。 ああ、
「父親に会ってみたい」と姉に言われて、しばらく悩んだ。 そもそも私たち姉妹でさえ、私が10ヶ月、姉が2歳の時に父と母の離婚に伴い別れたっきり、やっと最近再会したのだから。 私が物心ついてから、50歳になるまで。 父親が生き別れた娘のことを、それも最初の我が子がどうなっているか心配している気配は無かった。それどころか、継母との間にできた妹に夢中で、自分の連れ子である私が叱られていても、守ってはくれなかった。 ある時期まで、私は夕食の「鍋」が嫌いだった。 仕事が
明日、10/13(金)の読売新聞の朝刊(大阪版・地域面)に掲載予定の記事について、先に経過をお知らせし、謝罪をいたします。 昨日(10/11)の夜、「阪急バスの4路線を廃止する」というニュースのリンクを引用し、以下の2つの投稿をX(旧Twitter)の個人アカウントでいたしました。https://twitter.com/TerumiYamaguch1 この2つの投稿で「人材不足の危機的な状況」に対しての課題や、それを踏まえて事業を考える責務があるという想いで書いた
50歳に、なってしまった。 15歳のころ、すぐにでも死にたかった。 家では「暗い、かわいくない、気持ち悪い」と妹と比べて言われ続け、学校ではいじめに遭っていた。 勉強も運動も苦手で、本の世界に逃避して精神を保っていた。 死ななかった理由はあちこちで書いてるので省略。 『小公女』という物語が好きだった。アニメも観ていたが、原作を繰り返し読んだ。 父親が亡くなった途端、貧しくいじめられるようになった女の子が、最後に遺産と共に現れた父の友人に救われる。
5月に、28年ぶりに実の姉に会った。 その日のことを書こうとして、手が何度も止まり、忙しさもあってずっと先延ばしにしてきた。別に書かなくてもいいのだけれど、先日読んでいた愛着障害に関する本のこのフレーズで、言語化せずにいられない理由がわかった。 私たちは同じ両親から生まれ、姉が2歳、私が10カ月ごろに引き離された。 私に継母から語られ続けた実母のストーリーは、こうだ。 「若い男ができて、上の子だけ連れて出て行った。アンタのことは、妊娠中から中絶したがっていた
生野区役所も、港区役所も基本的には自転車で通勤している。ただ、雨の日や予定がある日は電車で行く。 音楽が好きなので、その時のヘビロテ曲がある。私が最後の数年間、勝手に「このまちのテーマソング」と決めて、生野のまちを歩く時によく聴いていた曲がある。 特に桃谷商店街から横に折れて路地を歩く時、この曲を聴いていた。 2019年に『ロケットマン』というエルトン・ジョンの伝記映画があって、そのサントラバージョンの「Your Song(君の歌は僕の歌)」が特にまちの空気に合
学校再編に取り組んだ、生野区長としての5年間。ある時期、再編で悩んでメンタルやられそうな時に、サンボマスターのこの歌をやたら聴いてました。 まさに「できっこない」と思われるミッションに、チームで向き合った日々でした。 今日、再編して2年目の学校の保護者の方に会ったんですが「学校どうですか?」と尋ねたら 「こどもは友達が増えただけで、特に変わりないです」 と返ってきて、そう言えば生野区長になってすぐの頃に別の区の小中一貫校の校長に話を聞きにいった時も同じこと言わ
昨日は枚方市で「先生シェアハウス わいが舎(や)」を建てて学校の先生を応援するプログラムづくりや研修を行う(株)わけわけの野中健次さんにお声かけいただき、視察と意見交換会に参加しました。 香里園駅から少し歩いた閑静な住宅街に、築1年の一軒家がありました。 シェアハウス用に1から建てているので、流しもコンロも2つ並んでいます。 個室はしっかり区切られ、庭にはバーベキュースペース。毎日帰って誰かがいる安心感と、プライベートの空間を両立させています。 週末には近所の人
このトップ画像の目を引くサンダルを見てください!もう一回貼るけど! ここからめっちゃ長い話になるので、一目で「ヤダかわいい!買う!」となった人は手っ取り早くリンク先でご購入を。8/7(日)までの限定予約販売です!買うなら今! 生野区の中学生が企画したリゲッタ=「いくのな商品」。もちろん、私はどっちも買いました! さて、ここから「キャリア教育」「ものづくり」「ICT教育」「職業観」「公民連携」などのキーワードが刺さる方は、腰を据えて読んでください。 これ
港区長になって100日が過ぎました。区長も2回目なのと「港区長⇔生野区長」と異例のスイッチ人事であることも活かし、できるだけ早くまちの課題をつかみ「未来志向のまちづくり・港区版」をスタートしたいところ。 そうは言いながら、着任した初日の朝8時半からトラブル続出!課題山積!あれ、選挙来るやん!……と、ドタバタしていた中でしたが、市民局の事業で「港区シティプロモーションオープン会議」を7/20に開催することができました。 町工場を盛り上げている「イノベーションポート20
生野区のみなさん、こんにちは! 3月号の広報紙の連載で、この3月末で5年の任期を終え、次年度より港区長になることをご案内しました。 そしてこの5年間、生野区のまちの目指す理想を掲げ、現実とのギャップを埋めるための「未来志向のまちづくり」に取り組んできたことを書きました。 広報紙の字数ではとても足りず、詳しく知りたい方のためにnoteのリンクをQRコードで掲載しました。 「未来志向のまちづくり〜課題最先端エリア•生野区の挑戦〜」と題した動画を生野区役所の公式Y
先日、蒲生四丁目でエリア活性化をしている「がもよんにぎわいプロジェクト」代表の和田欣也さんの案内で、まち歩きをしました。 生野区の「空き家シンポジウム」にお越しいただき、その際に教えていただいたことを実際に目で見ることができました。 「がもよんモデル」のエッセンスはこちらのインタビュー動画でも↓ 生野区のイベントでは段取りもろもろが悪く、ご参加のみなさんにご迷惑をお掛けしました。本当に申し訳ないところでありましたが、和田さんは気持ちよくまちを案内してください
昨日は「いくのな経営者と語る!オンデマンドバス&スマートシティを盛り上げよう!」というテーマで、オンラインイベントのファシリテーターをしました。 なんか、めっちゃ笑ってますけど、未来の見える楽しいイベントでした! 株式会社大都の山田Jack社長の呼びかけで、 株式会社リゲッタの高本社長と 山本精工株式会社の山本社長の お2人が参戦してくださり、イケてる生野の若き経営者たちの「生野のまちを盛り上げたろうや!」の熱が嬉しいディスカッションとなりました。 アーカイブで
3月30日から生野区の西部地域と平野区で、大阪メトロによるオンデマンドバスの社会実験が始まっています。 この文章の結論を先に言うと 「いろいろと文句言いたいのはわかるけれど、とにかく乗ってください!」 ……の一言です。この乗り物には、超高齢化社会と持続可能でSDGsな未来に貢献する可能性があるんです。 「敬老パスなら50円で乗れるのに」って言われると辛いですし、そこは政策的な判断が要ります。社会実験でエリアの狭い対象に対し、敬老パスのように税負担を最初からするわけ
母の通夜に出るのに、薄手のストッキングが切れていて黒いタイツを履きながら「あ、ママに怒られる」と思った。次の一瞬に、力が抜けた。もう、私の無作法を怒る彼女はいない。寂しさと安堵で、泣いた。 母の名前は、「照子」という。 そして、私の名前は「照美」という。 誰がどう見ても、母が我が子に「自分のような人間に育ってほしい」と願って付けた名前に見える。私自身、小学校2年生までそう信じていた。 私は、物心ついた時――それは、3歳下の妹が生まれた日の記憶からスタートする―