【読書ノート#8】「怒らないこと」
年初に古典を読むぞ!と思ったものの今週も読めていない私。。しかしnoteで晒しておくとプレッシャーは感じますね。次こそ読もう。
今週は会社でかなり凹むことがあって重めの本を読む気分にはなれませんでした。こんな状況にぴったりの本を積読していたことを思い出し(やはり積読推奨)、表題の本を手に取りました。本の帯を見るとアメトーークでも紹介されたみたい。
著者はスリランカ上座仏教の長老です。日本の大乗仏教でなく南伝の上座部仏教ですね。実はこの著者の本は好きで何冊も読んでます。仏教をベースによりよく生きるための智慧を語っています。どの本でも基本的にはを同じことを言ってるのですが、法話を聞くように色々な角度から話してくれるので毎回学びがあります。今回は「怒り」というテーマで話をしてくれるようです。さてさてどんな話か。
1. 怒りとは
1-0. 一切皆苦
「生きることは苦である」これが仏教の基本思想です。どんだけドライで面白味がないんだ、もっとハッピーに生きようぜ、と思いますよね。それで良いんです。仏教は心の病院。苦しくなったとき、辛くなったとき、仏教という病院に駆け込めば良い。まずはそこから。
すると自分で自分を苦しめていることに気づける。自分や他人に期待しすぎて苦しんでることに気づける。で、もっと仏教を知りたくなる(と思う)。もともと釈尊の説いた仏教は宗教というより哲学なので、共感するかは別としても仏教の考え方を知っておくこと役に立つと思います。
1-1. 怒りの定義
「怒り」というと、声を荒げたり「怒り狂う」イメージがあると思います。が、著者が定義する怒りは「暗い」状態 = 「喜び」がない状態です。たとえば以下も含まれます。
ちょっと意外ですよね。冒頭で私が個人的に凹んだ話をしましたが、私も普通の意味では「怒って」ません。傷ついて「悲しん」で「落ち込ん」だだけです。でも著者の定義で言えばこれも怒りになります。さてなぜか?
1-2. なぜ怒るのか
なぜ上記のような定義になるのか。「怒り」のプロセスを考えてみましょう。
たとえば、①人生はもっと楽しいはず!と勝手に期待して、②そうではなかったので、③「つまらない」と感じる。
①彼/彼女が(自分の思い通りに)思ってくれてると勝手に期待して、②その期待を裏切られ、③落ち込んだり悲しむ。
最後の暗い感情(= 楽しくない感情)は全て怒りの親類です。この暗い感情が暴走して暴力的な表現になると、普通の意味での「怒り」に発展するわけです。が、既に暗い状態になってる時点で「怒り」はあるわけです。
2. 怒りの影響
2-1. 怒る人は頭が悪い
著者は本の中で怒る人を徹底的にこき下ろしてます。そのくらいしないと「怒ることもときには必要だ」と思ってる人に届かないからでしょう。
過去の自分が怒ってる時や他の人が怒っている時を振り返っても、全くその通りだな、と思います。怒ってるときに正常な判断はできません。当然気分も良くないですし、何も良いことはないですね。
2-2. 怒りは猛毒
釈尊の実際の説教と言われるスッタニパータの最初の文が「怒りは蛇の毒である。」です。仏教において、怒りを無くすことが幸せに生きていく上で大事にされているかわかります。そう、怒りとは毒なんです。相手に対して威嚇してるつもりでも、怒りがまず攻撃して破壊しているのは自分自身です。
毒はすぐに治さないと体を蝕みますね。怒りも同じです。過去の自分・相手の言動に対して怒りを忘れずにいると、その怒りを思い出す度に理性は吹き飛び暗い感情が現れ、楽しい気持ちはなくなり人生が不幸になります。怒りによって損をしてるのは、誰よりも自分自身であることに気づくことが大事です。
2-3. 怒る人々は「幸せの大泥棒」
怒りが自己破壊なのは自業自得だからいいじゃないか、と思う人もいるかもですが、そうもいきません。人間は共感する生き物で、周りの気分に影響されやすい。もしイライラしている人が近くにいると、周囲の人も暗い方向に引きずり込まれますよね。
「怒り」は自分自身だけでなく、周囲の人々の幸せも破壊するのです。「怒り」の影響がどれほど甚大かよくわかりますね。まず自分については怒らないようにしましょう(次章参照)。残念ながら他人は変えられないので「怒る人」には、近づかない、怒りを向けられても受け取らない、といった対処をしましょう。
3. 怒りをなくすには
3-1. エゴをなくす
1-2章の「なぜ怒るのか」の①には前提があります。それは⓪エゴ(=「自分」があるという認識)があること。仏教ではこれこそ妄執で諸悪の根源だと喝破し、これを無くすために修行をします。が、凡夫である我々が頭でわかったところで、一朝一夕でその境地に辿り着くのは無理ですね。
著者も実践的なことを教えてくれています。それは「正当化」は曲者ということです。人間の根底には、
という強固な思い込みがあります。
普段はなかなか気付きません。余裕があるときは誰でも謙虚なふりができます。しかし過去、自分が怒ったときを思い出してください。必ず↑になってるはずです。そのわかりやすい例が「正当化」。相手に言うか言わないかは別にして、「自分はいかに正しいか。論理的か」「相手がいかに間違っているか。頭が悪いか」。頭の中でグルグル考えていませんでしたか?私は考えてました。。
相手は相手で「自分は正しい」と思って言動してるわけですから、まぁうまくいきませんよね。側から見てるとよくわかるんですが、当事者になると気付くのは難しいものです。
それくらいこの思い込みは心に根を張っています。少しずつ克服していくしかないですね。「あれ、自分、正当化し始めたな」と気づいたら、
と思い出すこと。
神様ではない凡人が考えることなど、間違いだらけで当たり前なんですから恥ずかしいことなど何もないんです。むしろ「自分は正しい」と裸の王様状態でいる方が恥ずかしいですよね。
3-2. 状況を理解する
上述した通り、仏教においてまず大事なのは「気づくこと」です。「あ、いま自分怒ってるな」と気づくこと。これができないと何も始まりません。
そして世界とは無常である、常なるものは何も無いのだ、と理解すること。相手とうまくやってるつもりが、いきなり別れることになり裏切られた気持ちになる。でも相手も自分もその関係性も常に変化しています。それを理解せず、その状況がおかしいと怒ったり悲しむのは、無常観を理解できていないからです。
3-3. 笑える人ほど智慧がある。
1-1章で定義した通り「怒り」とは「暗い感情」です。その逆の「喜び」の感情を持つことが「怒り」に支配されない人と言えます。著者曰くまずは、
ことが大事なようです。
そう心に決めれば、おかしなことを見つけるのは難しくないはずだと。たしかに子供はどんな状況でも勝手に楽しみを見つけ遊び出しますね。大人になると「周囲が自分を楽しませくれる」と無意識に期待してるのかもしれません。そんな王様気分では楽しみを見つけるのも一苦労でしょう。1-1章で書いた通り「べつに楽しくない」「何かつまらない」というのも怒りの一種です。
「刺激を受ける」ことに慣れきった自分の体に気づき(まず気づくこと)、主体的に世界を楽しむ(と覚悟すること)。仕事がうまくいっても、仕事が失敗しても笑えること。どんなときでも世界に喜びを見出せるかは自分の心次第、と気づき覚悟すること。
まぁとはいえ、簡単にはその境地には達せないですよね。それが常にできるようになれば人生の達人です。
これからも私に「怒り」は湧くでしょう。でもちゃんと気づけるようになりたい。で、「自分で人生を不幸にしちまった」と負けを認め、次は負けないようにその機会から学ぶ。そんな感じでちょっとずつ良い方向に変化できたらな、と思ってます。
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