note×standfm 御礼とコラボレーション収録の振り返り言葉/共話/共在/沈思黙考
皆さま、如何お過ごしでしょうか?
読書の春本番でございますが、皆さまはどんな書籍をお手に取って
おりますでしょうか?
冒頭で、日頃お立ちより下る<まれびと>の皆さまに感謝申し上げます。
平素は私の子育て×読書体験ラジオにお立ちより下さり、有難うございます。2023年4月5日で音声配信standfmでの活動が丸3年を迎え4年目に入って参りました。
引き続き、子育て×読書体験ラジオにお付き合い下さると嬉しく思います。
* * *
さて・・・
今回は先日、私の番組でコラボ収録をさせて頂いた内容を文字起こし+αとして徒然なるままに書き綴って参ります。
素敵なゲストをお二人及びして・・・読書などについて、あんなことやこんなことをお話させて頂きました。
コラボレーションのお相手はこちら👇
それぞれ番組リンクを貼りますので、宜しければ遊びに行ってみてください~
読書ラジオ ゆうこさん
言葉の花 あやのさん
──── コラボレーションのきっかけとは?
今回は私の脳内も妄想が現実になりましたが、読書ラジオゆうこさんの
番組を聴いている時に、言葉の花あやのさんの声が木霊した・・・
ボードレールが万物照応という「詩」を書いておりますが、お互いを照らし合う様に?エロスの神?に導かれながら・・・その残響はしばらく私の脳内を彷徨い、ついにはお二人にお声がけすることとあいなりました・・・
三人の共通点は「読書をする人間」でした。
読書をするきっかけや、日常出会う様々な言葉との向き合い方や、ご自身の在り方、対人関係で気をつけている点を約50分にわたりお話をさせて頂きました✨
【第1306回】コラボレーション/読書などについて
──── 読書体験で邂逅する「言葉」について
芥川龍之介が1923年〜芥川自殺までの1927年に書いた「侏儒の言葉」の中にこんな一節がございます。
言葉を固定的に捉えてしまうと、表面だけで背後の流れや気配に気づきにくいと思います。A面だけではなく、B面にも想いを馳せる様にすることが大切だと思います。
先日、読んでいた、長田弘詩集「食卓一期一会」には「言葉のダシのとりかた」という詩が掲載されておりました。
私は時々、料理をしますが、昆布から出汁を取ったり、煮干しで出汁を取ることもございます~
言葉にもダシの取り方があるんだな~と。
それは「言葉を選び」、その言葉というのは太くてよく乾いた言葉を選ぶと・・・
初めに言葉の表面のカビをたわしでさっぱりで落とす。
血合いの黒い部分から、言葉を正しく削っていく。
言葉が透き通っていくまで削る。
次に「意味」を選ぶんだと・・・
厚みのある意味を選んで、鍋に水を入れて強火にかけて、意味をじっくり沈める・・・
意味が浮き上がらないように、沸騰寸前でサッと掬い取る
ようやく、削った言葉のご登場なわけです。
言葉がなべの中でダンスを始める。
言葉はエネルゲイア的であり、常に今に一瞬降り立ち、次の瞬間には、霧の中、藪の中・・・
言葉のアクというアクは浮かび上がってくるわけですね・・・
その後は、火を止めて、黙って言葉の濾し取る・・・
それが言葉の一番ダシだと・・・
言葉の真実の味。
ただひとつ注意点がある💡
他者の言葉ではダシに使うことができない。
いつでも自分の言葉を使うこと。
お二人と言葉を交わしながら私の脳内では沸騰寸前、認知革命前夜とう状態でしたが、たくさんの言葉とすれ違いながら、選んだ言葉に自らの魂を吹き込む様なつもりで、これからも「言葉」について向き合いたいと思います。
──── 声の掛け合い/ 共に話すことに(共話)ついて
私の番組では、二人のゲストを同時にお呼びしてお話するのは初めてのことでしたが、三人で、姿が見えない状態で「声」という魂のみを収録空間という真空に放っていくと何が起こるのか・・・
姿が目では視覚的に確認できない、声の掛け合いは面白いことだな・・・と
「共話」について考えておりました。
アイコンとお声だけの空間では、なんだか日常にあっても不安定な自分の
現存在が更に薄まる様な感覚がございました。
唯だ、声の掛け合いは何かお互いのエネルギーの交換の様でもありますし、段々とエネルギーに熱を帯びてくるような気が致します。
お互いの言葉は淡くぼやけて交じり合い・・・その境界すらもグラデーションとなり相互に浸透する心地よい空間でございました。
いつも考えていることですが・・・
誰とエネルギー交換するのか?
誰と混ざってみるのか?
誰から購入するのか?
誰から学ぶのか?
そしてどこに居たいのか?
私にとってはすごく大切にしている日常の問いです。
──── 深呼吸をし、自我を薄めて共に見えない空間に言葉を放っていく運動は、ゆうこさん、あやのさんお二人の眼差しを我がものとし、自己を離れたところから見てみるというメタな感覚もありました。
世阿弥は「離見の見」という常人には到達できない境地に至ったわけですが、それはポール・ヴァレリーの思索、ムッシュー・テストの中にも通ずるものがある様に思います。
──── 世界劇場で必死に役を演じる自分を観客席からぼんやりと見つめる自分。
大きな鏡、箪笥、そして椅子に座り左に首を傾けて目の前の男に向きあっている自分。
目の前の男は座っている男に向き合う様に首を右側に傾けてたっている。
鏡には二人の姿が同時に映し出され、見ている自分と見られている自分が内包された一枚のイラスト・・・
ヴァレリー自身が自らを鏡像的に語り描く構図の様に、否定と肯定は常に同居し、この二重構造は「死のモラル」から導かれた苦痛の幾何学の様でもあります。
「見えていること」と「見えていないこと」は同時に存在し、「見えていること」で「見えていない部分」の不在に気づく。
「見えていないこと」で「見えていること」の存在に改めて気づく。
今回のコラボ収録で同じ時間と空間を共有し共に在ることで、或いは・・・共話するこで、<わたし>と<あなた>の境界は淡くぼやけて混じり合い
<わたしたち>といいう最小単位の共同体を一瞬、生成できた様にも思います。
私は消滅しますが、同時に他者も消滅する訳ですね。
お互いの関係の細やかな縦糸と横糸の絡み合いは目には見えませんが、私が不在になったことで関係性の糸はより色濃く感じられる様になりました。
──── 沈思黙考としゃべることについて
レバノンの詩人にハリル・ジブラーンが、「しゃべることについて」という詩を歌っております。
「しゃべるときというのは、心が平和でなくなったときである」
心の孤独に耐えられなくなった時に、人は唇に生きることになる・・・
話しているときに自らの思考(は半ば殺されている状態にある。
思考とは空間(スペース)を必要とする鳥だから、ことばの籠の中では
羽を広げるだけで、飛び立つことができない。
人間はどうしようもない未完成な一本の弱い葦ではあり、ナイルの一滴に過ぎないかも知れません。一瞬の不安感にも耐えることができない弱い動物だと改めて理解することが出来るジブラーンの詩です。
あるがまま、裸の自己が生起するので、沈黙に耐えられず、逃げ出したくなる衝動と一方で、大きな樹の下で沈黙に浸る様に、自己の内側のミクロコスモスをゆっくり巡ることで、言葉に真実が宿り魂が降り立つ様にも思えて参ります。
宙ぶらりんの状態に如何に耐えられるか?
真空に耐えて自我を薄め、内に住まう賢明なもう一人の自分の声に耳を傾ける。
沈思黙考としゃべること。
お互いが相互に依存し連携しあう不可分の関係性について、自分の存在は
他者に担保されている。
コラボ収録をきっかけに改めて考えることになりました。
収録では語らない妄想を徒然なるままに、綴りましたが、ここまでお読み下さり、感謝申し上げます。
* * *
──── ここからは毎度の宣伝でございます。
読書術研究家の日々の活動👇
【stand.fm 子育て×読書体験ラジオ】
→ 2020年4月5日~配信をスタートしており本日(2023/4/11時点)で1,320本の音声コンテンツを配信しております。番組開始から丸3年を経過し、現在は37ヶ月目に番組も入って参りました。
リアルの場ではお会い出来ない方ともゆるい弱い繋がりが持てて、毎日刺激的な日々を過ごしております💡
【Spotify 子育て×読書体験ラジオ】
【Twitter】
読書全般にご興味ございましたら、是非、お立ち寄り下さい。
有難うございました~
またのご来店、心よりお待ちしております。有難うございました~