運命の人になんか出会えない私たちは<江戸川乱歩><ミラン・クンデラ>
わたしの大好きな江戸川乱歩のエッセイに、「恋愛不能者」というものがあります。
~プラトンのアンドロギュノス、二つの顔と八本の手足を持った本来の球状人間が、真っ二つに切断せられて今の形になった人間は、その過去の片割れを永遠に探し求める、これが恋愛だという考え。そのベター・ハーフは全世界に唯一人しかいないという理想主義、この考えからすれば、男は全世界の女、少なくとも全日本の女の中から、ただ一人を探し求めなくてはならない。極小なる現在の環境、非常に近い自己の知友関係の中に、その理想的唯一者が偶然混じっているなどとは、到底信じられないことである。したがって、世に言う恋愛なるものは、行き当たりばったりの、おざなりの、一種のあきらめのほかのものではない。かくの如きものが如何にして最高至純の恋愛であり得ようか。~
『孤島の鬼』において<一生涯に、たった一度巡り合った、わたしの半身>とまで言わせた主人公の恋人を殺し、どうでもいいような(と書くとまた語弊があるのですが)女と結婚させています。また、乱歩は「わが夢と真実」の中で奥さんのことを軽んじるような発言を繰り返し、15才頃に恋を同性に注ぎ尽くした、と書いているため同性愛というのは彼にとって大きな意味のあるものと判断できるのですが、『孤島の鬼』の中では同性愛も実らせません。
以上より、乱歩にとっての「至上の恋愛」とは叶わないものであると考えられます。「どうでもいい女」との恋愛は成就させていることから、叶う恋は一種の諦めのようなもの。叶わぬ恋こそが至上の恋愛なのです。
高校生の頃まで、わたしは運命的な恋に落ちると信じて疑ったことはありませんでした。
いつか自分の全てを理解してくれる、唯一絶対の「運命の人」が現れて恋に落ち、永遠に「幸せ」になる・・・。
勿論その恋人はわたしのことを最優先に考えてくれる。運命の人だから。
趣味もぴったり。運命の人だから。
出会いも物語的なはず。運命の人だから。
でも、そんなことはおこりませんでした。
おこらなかったんです。
やはり、叶う恋に至上の、絶対的な恋愛はないように思えました。
でも、運命的な恋愛じゃないといけないんですか?
っていうか、運命的であるというのは誰が決めるんですか?
わたしたちは、その恋愛が運命的であるか否か、どうやって判断したらいいんですか?
教えてください乱歩先生・・・。
と、そんなこんなを考えていたときに出会ったのが、『存在の耐えられない軽さ』という、ミラン・クンデラによる哲学的で甘美な恋愛小説です。
彼はチェコ出身の作家で、「プラハの春」において改革を支持して著作の発禁処分を受けるなど、政治的作家でもあります。もちろんこの作品にもそれは色濃くでているのですが、あえてここでは恋愛描写にしか触れないことにします。
二枚目で医者のトマーシュは妻のエルザが Es muss sein!(ドイツ語で「そうでなければいけない」くらいの意味でしょうか)、つまり必然的存在、ではないということに気がついてしまいます。
さらには彼女のために彼は有名外科医としての地位を失うことになり、トマーシュはエルザを大切にした自分の判断に自信を失っていきます。
偶然彼女のカフェに行かなければ、気が向いて彼女に声をかけていなければ、終わっていた関係。
「極小なる現在の環境、非常に近い自己の知友関係の中に、その理想的唯一者が偶然混じっているなどとは、到底信じられないことである」
乱歩先生の声が聞こえてきます。
けれど。
トマーシュは自分が夢に見たような女と理想的世界に暮らしている時、エルザが悲しげな目つきで自分を見るのを想像し、耐えられなくなるのです・・・。
そのときトマーシュは、必然的恋愛でなく偶然的恋愛をとるのです。
〜「トマーシュ、あなたの人生で出会った不運はみんな私のせいなの。」「もしチューリッヒに残っていたら、患者の手術ができたのに」
...(中略)...
「テレザ」と、トマーシュはいった。「僕がここで幸福なことに気がつかないのかい?」〜
必然的恋愛ってなんなんですかね。
ベター・ハーフは全世界に唯一人しかいないという理想主義、この考えからすれば、男は全世界の女、少なくとも全日本の女の中から、ただ一人を探し求めなくてはならない。
乱歩先生はそうおっしゃいますけれども、
「広い世界の中で、知り合えるくらいの環境に互いが存在した」ということは、
偶然だろうけど、
それを奇跡と呼ぶひともいるんじゃないでしょうかね?
以上は2年くらい前に書いた文章です。写真はチェコ旅行の時のもの。昔から恋愛についてこちゃこちゃ書いていたんだな、と思って転載しました。