かなり違った人との会話ーミニ読書感想『100分de名著 偶然性・アイロニー・連帯』(朱喜哲さん)
NHK番組『100分de名著』シリーズのテキスト『100分de名著 偶然性・アイロニー・連帯』(NHK出版、2024年2月1日発行)が学びになりました。ナビゲーターは哲学者の朱喜哲さん。番組は見れていませんが、書籍として単独で楽しめる。朱さんの単著『〈公正〉を乗りこなす』とリンクさせて考えることができました。
『公正』は「正義論」のロールズと、「会話を続けるための哲学」を提唱したローティが二本柱でしたが、本書ではそのうちローティの著作を取り上げています。ローティは「真理を探究する」という伝統的哲学観に対して、真理ではなく会話という新しい軸を打ち出した哲学者。本書は100ページくらいの短い本ですが、ローティの半生をたどる伝記としてもしっかりと成立していました。
発達障害の子を育てる親として特に胸に残ったのは、序盤に出てくる「対蹠者(たいせきしゃ)」という概念でした。対蹠とは、ある地点Aがあるとき、地球の裏側の点。つまり、日本とブラジルのように(少なくとも距離上は)かけ離れた存在です。ローティの会話とは、対蹠者をもカウンターパートとする会話なのです。
そこで大切になってくることは、言い換えです。
著者は、「痛い」という感覚を理解する人の対蹠者として、痛みを「脳神経のC繊維の刺激」として理解する異星人を想定します。地球人目線で言い換えれば、「痛みを理解できない」。でも、それは分かり合えないことを意味しなくて、C繊維の刺激に「言い換えているんだな」という理解の仕方は可能です。
これは、発達障害者が、定型発達者の想定する「人の心」「共感」をすっと理解できない姿と重なります。やや乱暴ではありますが、発達障害のある我が子は、定型発達らしい親の対蹠者といえる。
しかし、ローティの哲学に則れば、相手が対蹠者であるからといって必ずしも断絶を意味しない。言葉の言い換えを駆使することで、互いの理解を架橋するすることはできる。それは阿吽の呼吸で分かりあうとは違うけれど、相互理解には間違いない。
本書からそうした希望を受け取りつつ、ドキッとする思いもする。それは後半の『ロリータ』と関連づけた部分でした。ローティは「カスビームの床屋」というシーンを取り上げ、『ロリータ』の主人公ハンバートが、床屋の主人の話にまったく理解を示さないことを批判的に指摘する。著者の言葉に置き換えると、こうなります。
これまた、ASD(自閉スペクトラム症)の特性として合致してしまうのです。あくまで特性として自分本位になってしまうけれど、外部から見ればそれはまさに「自分にしか関心がない」姿に映るよなあと、どきりとさせられます。
対蹠者とは、どこまでを含むのだろう。もしかしたら、発達障害者は対蹠者の枠からも、排除されるのだろうか?そんな疑念にもかられてしまいました。
しかし私は最初に述べたように、発達障害者も対蹠者だと信じたい。このあとに著者が引いたローティの言葉に、その思いを強くしました。
かなり違った人、とローティは言う。その響きは、認知・理解に大きな違いのある発達障害者を排除してるとは、思えないのです。
少なくともローティの教えに則れば、発達障害のある人と定型発達の人が互いに会話する社会を構想することは可能だと、私は信じます。
会話をめぐる哲学。冒頭でも紹介した『〈公正〉を乗りこなす』を読むと、さらに深められると思います。感想はこちらに書きました。