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自分の考えなんてあるのかというお話

意見を持つことはnoteを毎日更新し続ける中でできてきたようにも感じています。

ただ、ぼくは根本的に考えることが苦手です。だれかの答えを引用させてもらうことが多いのは実感としての事実だと感じています。

そもそもぼくをはじめとして「”自分の考え”を持ってる人なんているのかなぁ」と考えているのですが、そんな人はいないのではないかと思ってます。

この地球には70億人もの人が生きていて、その中で誰も経験したこともなければ、考えたこともないような思考なんて果たしてあり得るのか、と。

自分の考え、というからには独自性が高く、再現性も低いものではないかと想像してしまいますが、そういうことではない気がしますよね...。

"自分の考え"というのは一体なんなのでしょうか

自分の考えを述べよ、と求められた際に質問者が意図しているのは恐らく、恐らくですよ。恐らく数多ある考えの中でどれを選び、それを選んだあなたなりの理由はなんですか?ということだと思うんです。

いや、だってね。

そもそも日本だけでも1億人以上の人が住んでいて、同年代の人間もそこそこにいて、同じようなステータスで生きているんだとしたら、それなりにならされた意見や考えを持ってしまうのは仕方ないんじゃないかなぁ、なんて思うわけです。

けど、そのならされた意見自体に意固地になってしまうことは、ぼくはnoteで度々取り上げていますが、他の人の考えや意見を受けいれない、もしくは受けいれられない態度になってしまうのではないですか、と。

その最たる問題は家族を他人だと思えるか否かだと思っています。

家族という形態を受け入れるためには、自分以外の価値観を持つ人間を受け入れないことには始まりません。

ぼくでいえば奥さんと結婚するにあたり、ぼくではない誰かと生活をともにしていこうと思う段階で、異なる価値観を持つ人間との生活を覚悟しなければなりません。

そこに子どもが加わればなおさらです。

"自分ではないだれか"との生活をするということは、その人がもつ価値観を認めなければならないわけで、自らの価値観を一緒に生活をするからといって(家族なんだからわかるべきだと)考えるのは傲慢です。

ぼくがこれまで生きてきて、そんな傲慢な態度(家族なんだからわかってもらいという態度)をとってしまう人は、過去に認められた経験値が少ない傾向にあると感じています。

だから、人を認めることができないというんですかね。自分の意見と異なる意見や、その立場をとる人を拒絶してしまう人が一定数存在しているということです。

それは多様性の享受ということに結びつくのですが、多様性を享受できない人の問題というのは、他の人の意見を認められない人だけではなく、他の人の意見を認められない人を認められない人にも当てはまる問題なんです。

どういうことかといえば、多様性を受け入れられない人がいたとします。しかし、あなたがその価値観を「受け入れられない」といってしまった場合、そもそも多様な価値観を受け入れられてませんよね、ということです。

だから、多様な価値観を受け入れられない人を受け入れられないのであれば、あなたも多様性を受け入れられてませんよね、と。得てして、そういう人に他人を認めることができない人が多い印象を抱いています。

つまり、子どもや奥さんの価値観を認めることができない。

一人の人格として認めるのではなく、「子ども」「妻」というポジションでしか見ようとしないから、発している内容に対して上から目線で否定したがる。

相手のことを人格として認知し、その人格を受け止めることができることが家族としての生活が円滑に回る秘訣なのではないでしょうか。


じゃー、自分の考えを持てるかどうかというのはなんなのか。

その人の経験知であるということではないでしょうか。

気づいてきたことであり、可能性を探ってきたなかで事象に触れたことのある確かな感触の中から得られる知識や見識から醸成できるもの、それが"自分の考え"だと思います。

現在、ぼくと生活をともにする家族の中には2ヶ月を超えたばかりの三男がいますが、彼に自分の考えを聞いたところで返答は帰ってきません。彼はまだ発言をすることすらできませんから。

では一番上の長男はどうでしょう。

彼の発することばの多くは、周囲の環境から与えられたものであり、自らが獲得・習得してきたものばかりです。それを文字として認識することではなく、実体験(聴く・見る・知る・感じる)を通して学んだ純粋無垢な情報。

それらを自分の感情に織り込むことで、自らがどう思っているのか、どうして欲しいのかを一生懸命にことばに出しています。

彼の様子をみていて感じたのですが、ぼくも同じプロセスを経ているんですよね。どういうことかといえば、彼とぼくとの違いは文字情報を取得できるかどうかしかありません。つまり、テキストが読めるか否か。

ぼくはテキスト情報を読み取ることができるので、そこから誰かの思考や体験を追うといった何かしらの情報収拾をすることはできますが、彼の場合はまだそれができません。

でも、彼は彼なりに"自分の意見"をもち、発言している現場に立ち会い、目撃してきました。

時には感情をうまくコントロールできずに泣いてしまうこともありますが、自分のしたいと思うことやしてほしいと願うこと、そして、状況に対してどうなってほしいということにことばを紡ぐことが出来ています。

まだ4歳ですが、その4年間の中で多くの人に出会い触れてきた経験から、自らの基準に照らし合わせ、"考え"を持つことが出来ているわけです。だからこそ、経験知であると思うわけです。

ただ、その経験知(考え)を他人は否定できるのかということです。

よく議論になると論破することを明確に目指す人がいますが、それは相手の知識不足や見識不足を露呈させ、辱めようとする意図が見え隠れします。

何かしらの背景を背負い、その場に立つことが大切なポジションにいる人たちならば必要なことかもしれませんが、普段の生活の中で相手の考えを屈服させる必要なんてどこにもありません。

それは仕事であろうが同様です。

相手の考えが自分と異なる場合というのはよくありますが、それを知識や認識・見識が不足していることをあげつらい、否定することをしていいものなのでしょうか。

これは失敗の許容にも通じる話だと思うのですが、まずは相手の考えを受け止め、そこから起こりうる失敗を提示することだけではダメなのでしょうか。

大小ある成功をつかみとることは必要だとは思いますが、それを無理やり状況を整備した形で得ることが果たしていいのかどうか、ということです。

それならば、失敗談を提供し、その失敗がなぜ起こったのかということを共有をした上で、その人に経験してもらうことが不可欠なのではないでしょうか。

冒頭でも書きましたが、ぼくは考えることが苦手なために仕事上で質問をされて詰んでしまうことが少なくありません。そして、その度に実感するのは、相手とぼくとの間にある経験からくる知識や見識の量や質の違いです。

それを丁寧に共有してくれる人もいれば、そうではなく否定することだけをしてくる人もいました。ここで言いたいのは否定だけをする人を否定したいということではなく、ぼくがどうしたいかでありどうでありたいのかです。

自分の考えを持つということは、経験して得た知識や見識、認識に自分の性格を踏まえた上で発することばであり、誰か否定することに使うものではありません。

もし、その誰かとの間に溝があるのであれば、その溝を埋めること(失敗の共有すること)で溝は埋まりますよね、というお話でした。

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ゑんどう ≒ 遠藤 涼介
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