言葉。ジェンダー。職業。そして
ゆうです。これが 3回目の投稿になります。
今回は、言語人類学の講義から学んだことを共有したいと思う。
「帰国子女」って言葉を初めて聞いたとき、それって女子だけなの?とか思わなかった? 思わねーよ(笑)って? それあたしだけ?
「子女」という言葉は、「子」(男の子供)と「女」(女の子供)を合わせた言葉なんだって。
と聞いて、納得できる人いる?
子 (child) は男の子 (son) と女の子 (daughter) の両方を含む言葉でしょ。
ドイツ語の das Kind は中性名詞だし。
でも、日本語の「子」は「男の子」だけを指す言葉でもあるってことなの。
図にするとこうなってる。
こういう言葉って、じつはたくさんあるんだよね。
man という英語は「男」って意味だと思ってる人が多いと思うんだけど、「人」を意味する言葉でもある。
man=男という発想しかないと、chairman は男女差別だから chairperson に変えよ!みたいなことを言いだしたりする人もいる。
じつはね。最初に man(=人)があったんだって。
あとから、性を区別するために woman(=女)という言葉ができた。
wo は wife の語源で、woman は「妻になる人」って意味ね。
で、woman という言葉ができたから、man は男という意味をもつようにもなったってわけ。でも、man=人がなくなったわけじゃない。
こういう構造になってるのは人間だけじゃないの。
たとえば、dog(=犬)はオス犬のことだって知ってた?
まあイマドキ、メス犬のことを bitch って呼ぶ人はいないと思うけどね。
職業を表す英語は、語尾に “ess” をつけると女になる。
actor ➡ actress
steward ➡ stewardess
waiter ➡ waitress
host ➡ hostess
God ➡ Goddess
こういう標識のついた言葉を言語学で「有標」とか「有徴」っていうんだけど、これらの職業は男であることが前提になってたってことよ。
ドイツ語の「教師」は、der Lehrer で男性名詞。
女の教師は、語尾に in をつけて、die Lehrerin(女性名詞)。
ドイツでは、教師は男がなるものだったんでしょうね。
2005年、アンゲラ・メルケルがドイツ史上初の女性宰相になったとき、Kanzler(宰相)に in をつけて、“Kanzlerin” と揶揄を込めて彼女を呼ぶのが流行ってたらしい。
日本語にもあるよね。
女優、女医、女流作家、女子アナ、リケジョ。
これぜんぶ「有標」なんだよね。
ところで、「看護婦」は女性差別だからって「看護師」に改められたよね。
でもさぁ。弁護士とか公認会計士とか一級建築士はいいわけ?
「士」は、男って意味なんですけど。
弁護男
公認会計男
一級建築男
ホントにそれでいいの?
向井千秋さんは「宇宙飛行士」って呼ばれてるけど、女の人だよね?
宇宙飛行男じゃないよね?
女と男の役割が分化されたのは、職業ってやつのせいだと思うんです。
近代以前、まだ医師とか看護師という職業が確立していなかった時代にも、病人や怪我人を治療しケアする行為は当然あったわけで、それは男か女かに関係なく行われていたそうよ。
その行為が “職業” として専門化していく過程で、医師は男、看護師は女、という性別による分化が進んだ。しまいには、看護婦になれるのは女だけ、と国が決めたの。
「モノづくり」という行為も、もともとは男も女もやってたことなんだよ。
その行為が「職人」という職業になり、ギルド的な職人組合が形成されると、女は組合によって排除された。
もうわかるよね?
もともと、男女間に社会的性差なんてなかったのよ。
フェミニズムを主張する人たちって、こういう歴史をちゃんとわかってるのかなー、と思っちゃった。
あたしはね、こうした歴史をふまえて、直ちに社会的性差をなくせ!と言う気にはなれない。それって、歴史をナメすぎだと思うから。
生物学的性差と社会的性差を切り分けて、社会的性差についてよーく考えてみよう、というアプローチには賛成よ。ただね、究極的に社会的性差を撤廃することがゴールなのだとしたら、その敵の正体と強大さを知るべきだと思うんだ。
フェミニズムの敵は男じゃない。もちろん女でもない。
ましてや、フェミニスト同士が教義の違いから罵り合うなんて・・・
愚の胡っ蝶しのぶだわよ。
真のフェミニズムが対峙すべき相手は "社会" という名のバケモノなんです。それは、千年以上もの時間をかけて塗り固められてきた歴史遺産のようなもので、言葉すらも変えてしまう力をもっているのです。
それを、時間をかけて壊していく覚悟があるのなら、あたしも協力を惜しまないよ。
その目的は、女の権利とか社会的地位なんて範囲におさまらない。それは、あらゆるステレオタイプを退け、偽りの物語を押しつけてくるメディアも退け、特定のグループがわめき散らすポリティカル・コレクトネスをも退け、ただただ、一人ひとりの人間が多様であるという共通言語を勝ちとる戦いになるんだと思う。
そのためになら、あたしは生涯をかけてもいい。
(追記)
『ゆうの学びなおし』第 4回