「プラーナがブラーフマンであるのはいくつもの解説が書かれているからだ」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.29)
はじめに
ウパニシャッドは奥義書と言われていますが、意外と物語調にわかりやすく書かれているものは多いです。
目を通すとわかりますけれど、謎めいた文章が多く、特に、『ブラフマ・スートラ』はその謎めいた言葉が羅列されているのをシャンカラ師が論理的に解説されておられています。
しかし、それでも、述べられたことから何を言わんとしているのかという推察しさらに熟考せざるを得ないわけですが、それはそのように意図されていると思います。
言葉にして明確に表現できないという弱みを強みとして、「自分で考えろ」もしくは「熟考せよ」ということかも知れません。この熟考も人それぞれで何十年もかかる人もいればちょっと考えてひらめく人もいます。
しかし、ちょっとでひらめく人にの中には大いなる勘違いもいらっしゃることもご注意ください。ひらめいたことをひらめいたままにとどめずに本当かどうか日々の生活の中で少しずつ実証することが大切です。
解説書という体裁ですが、受験の為のあんちょこではないようです。合格するにはいわゆる「解脱」が必須のようです。
もうすぐ第一篇の第一章が終わりそうですが、先は長いので是非継続されてお付き合いくださいませ。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章二十九節
29節 もしも、この教えが話し手(解説者)自身の個我に関するものであるため、プラーナはブラフーマンではないと主張されるならば、(私たちはいいえと言う)なぜなら、ここには最も内なる自己への言及が豊富にあるからだ。
反論相手:プラーナがブラーフマンであるという主張は反駁されている。至高のブラーフマンはプラーナという言葉の意味ではない。
なぜですか?
なぜなら、その教えは話し手自身(解説者)についてのものだからだ。インドラと呼ばれるある具現化された神が教師であり、「私だけを知りなさい」(Kau.III.1)という序文の中で、また「私は意識と同一化されたプラーナである」(Kau.III.2)という文の中で、一人称でプラタルダナに自分自身のことを語っているからである。話し手自身として教えられたこのプラーナが、どうしてブラーフマンであり得るのだろうか?それはヴェーダのテキスト「発語器官や心なし」(Br.III.viii.8)などで否定されているようにブラーフマンは、話し手になることはできません。同様に、「私はトヴァスタの3つの頭を持つ息子(ヴィスヴァルーパ)を殺し、ヴェーダを嫌う隠者を野犬に投げつけた」(Kau.III.1)といった文章でも、インドラは肉体に適合する資質によって自らを讃えているが、ブラーフマンには適合しない。そして、インドラは、その力の所有によってプラーナと一体であるべきだというのは論理的である。なぜなら、「生命力は力である」(Bt.V.xiv.4)というような文章に出会うからである。インドラが力強さを司る神であることもよく知られている。なぜなら、一般の人々でさえ、「どのような精力的な努力であれ、それはインドラの仕事である」と断言する。意識との一体化もまた、神聖な存在にとっては、その妨げのない知識によって可能なのである。「神々は妨げられない知識を持っている」と言われるからである。このように、教えがある神聖な存在についてのものであることが立証されれば、最も有益なものに関する教えなどの事実は、その存在に言及しているものとして最善の方法で解釈されなければならない。
ヴェーダンティン:このように、話し手であるインドラが自分自身について話しているという事実を根拠に、まずプラーナがブラーフマンである可能性がまず否定され、次にそれに対する反論が「ここには、内なる自己への言及が豊富にあるからだ」と述べられています。「ここに」、この章では、「内なる自己への言及が豊富」が見つかる。「プラーナがこの肉体に生きている限り、生命は続く」(Kau.III.2)というテキストは、生命を与え、生命を終わらせるという問題において独立性を持っているのは、意識と一体であり、内在する自己として存在するプラーナだけであり、(プラーナの後に現れる)いかなる外部の神でもないことを示している。同様に、「プラーナが存在するとき、感覚と器官は存在する」(同上)というテキストは、内在する自己としてのプラーナが感覚と器官を支えていることを示している。さらに、「意識と同一化されたプラーナが肉体を保持し、起き上がらせる」(Kau.III.3)というテキストも、内在する自己としてのプラーナが肉体を支えていることを示している。そして、「人は言葉について尋ねるのではなく、話し手(すなわちプラーナ)を知るべきである」(Kau.III.8)から始まり、「要点を説明する。車輪の縁が戦車のスポークに固定され、スポークが身廊(nave)に固定されているように、これらの(五つの)要素と(五つの)感覚対象は(五つの)感覚知覚と(五つの)感覚に固定され、これらの後者はプラーナに固定されている」(同上)、「説明されているように、まさにプラーナは意識と一体である」(Kau.III.8)、「至福、不老、不死」(Kau.III.8.)と言われています。これらのテキストはすべて、感覚と感覚の接触に影響されない唯一の対象として、最奥の内なる自己を提示している。そして、「人は“彼は私の自己である”と知るべきである」という言葉で結ばれた結論は、最奥の内なる自己を受け入れるなら正当化されるが、外なる存在(例えば、後に生まれた神)を取り上げるなら正当化されない。これを裏付けるように、別のウパニシャッドには「この自己、万物の知覚者はブラーフマンである」(Br.II.v.19)という一文がある。したがって、最奥の内なる自己への言及が豊富であることから、このプラーナがブラーフマンであるということになる。
それなのに、なぜ話し手は自分自身について教えているのだろうか?
最後に
今回の二十九節にて引用されているウパニシャッドを以下にてご参考ください。
上記の引用で「意もなく」の意はマナスのことで、一般的には、「心」であるとしています。
今回の二十九節を要約しますと
プラーナはブラーフマンではないのは、この解説が解説者自身の個我について語っているからだと言われるかも知れないが、私たち(ヴェーダーンタ学派もしくは行者)はそうではないと反論するのは、ウパニシャッドにはプラーナがブラーフマンであるといういくつもの解説が書かれているからだ、としています。
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