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「決意次第でブラーフマンと自らを同一視できる」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.2)


はじめに

シャンカラ師の生存した時代は、西暦後の700年頃とされているので、インド社会の時代背景として、もう一度復活しようとしているバラモンの真の教えとこれから200~300年かけて衰退しようとしている末期的な仏教徒の攻めぎ合いが、この『ブラフマ・スートラ』での反論という形で記されています。

この時代背景は、江戸末期の硬直した武家社会から明治維新後にイノベーションする感じと似ているのかもしれません。

現在では、確認するすべはないのですが、先生から聞いた話しでは、『ブラフマ・スートラ』の著者だとされるバーダーラーヤナは仏教徒との論争に負けて崖から落ちたと聞いています。それほどに、命がけの論争だったのですね。

実際に、先生との朝のダルシャンと呼ばれる質疑応答の時間は、そんな雰囲気がありました。なのでそんな緊迫感が漂う中で一番に質問するのは私ぐらいのものでした。後日談ですが、私が質問するようになって、緊迫感がかなり薄まったと修行仲間から言われました。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章二節

2節 そして、このことは、意図された資質が(ブラーフマンの場合)正当であるという事実から導かれる。

vivaksitdhとは、表現されることを意図したものである。ヴェーダには著者がいないため、話し手(すなわち著者)がいない場合、意図という考え方は許されないが、それでも意図という言葉は、「結果として受け入れられる(*4)」という意味で比喩的に使われる。一般的な経験でも、ある言葉について表現された意味のうち、受け入れられそうなものは意図された意味と言われ、受け入れられそうにないものは意図されていない意味と言われる。同様に、ヴェーダの場合、意図された意味は、それが受容可能なものとして提示されているという事実から知られ、意図されなかった意味は、受容不可能なものである。

(*4)accepted:意味を意図することの結果は、そのような意味として理解されることである。その理解の可能性が、今議論している属性の場合には存在するので、それらは「意図されている」のである。

受け入れられるか受け入れられないかは、やはり、ヴェーダのテキストの意味が何であるか、何でないかから決定される。それゆえ、ここで瞑想中に取り上げるようにと命じられている、真の決意などという意図された資質は、至高のブラフマンに適合する。なぜなら、真の決意は、至高のブラーフマンの場合にのみ考えることができ、それは創造、継続、消滅の問題において絶対的な力を持っているからである。そして、「真の欲望と真の決意を持つ」というフレーズは、「罪から解放された自己」(Ch.VIII.vii.1)などで始まるテキストで言及されている至高の自己の資質と関連している。akasatmaというフレーズ(Ch.III.xiv.2)は、「空間のような自己(すなわち性質)を持つもの」という意味で派生したもので、ブラーフマンは、その遍在性(all-pervasiveness)などの資質によって空間と類似性を持つことが示されており、このことは、「大地よりも偉大なもの」(Ch.III.xiv.3)というテキストにも示されています。先の言葉(akasatma)を「空間を自己(すなわち肉体)とするもの」という意味で説明したとしても、全宇宙の源であり、すべてのものの自己であるブラーフマンが、空間を自己の肉体とすることは可能である。まったく同じ理由で、ブラーフマンはあらゆる行為の実行者であることができる。このように、ここでもまた、瞑想のために意図された資質は、ブラーフマンに適合する。

「心と同一視され、肉体としての生命力を持つ」というのは、個々の存在を示す印であり、したがってこのテキストはブラーフマンには適用できないと主張された。 私たちは、これさえもブラフマンに適用できると言う。というのも、ブラーフマンは万物の自己であるから、個人に属する心と同一視される性質は、ブラーフマンに関係することになるからである。このように、ヴェーダやスムルティの聖典には、ブラーフマンについて次のような記述がある。「あなたは男であり、若い男であり、また若い女である。あなたは杖をついてよちよち歩く老人である。あなたこそが、生まれた後に多面性を持つ者となるのです」(Sv.IV.3)、「主は、手と足をあらゆるところに持ち、目と頭と口をあらゆるところに持ち、耳をこの世のあらゆるところに持っておられます。彼はすべてに浸透して存在する」(Sv.III.16,Gita,XIII.13)しかし、違いは、「主は、生命力と心もなく、純粋である」(Mu.II.i.2)というテキストは、無条件のブラーフマンに関連しているのに対し、一方、現在のテキストの「心と同一視され、生命力を肉体として持つ」は条件付きのブラーフマンに関連しているということです。したがって、意図された資質は正当であるため、ここで教えられているのは至高のブラーフマンであると理解できる。

最後に

今回の第一篇第二章二節にて引用されているウパニシャッドとバガヴァッド・ギータを以下にてご参考ください。

「あらゆる悪を絶滅し、不老不死であり、憂苦を離れ、飢渇を感ずることなく、真正な欲望と真正な思慮をもつアートマンを、人は探求すべきであり、認識しようとすべきである。このアートマンを見出して認識する者は、一切の世界を得て、すべての欲望を満足させるのだ」と、プラジャー=パティは言った。

(Ch.VIII.vii.1)岩本裕訳

意(マナス)から成り、生気を肉身とし、光輝を姿にもち、真実を思惟し、虚空を本性とし、一切の行為をなし、一切の欲望をもち、一切の香を具え、一切の味をもち、この一切を包括し、沈黙して、煩わされることのないもの、

(Ch.III.xiv.2)岩本裕訳

上記の『チャーンドギャ・ウパニシャッド』を先生が訳したものを下記にご参考までに記載しますが、訳す人によってこんなにも違います。

その人物が自分を意思(マナス)と同一視していれば、その人物の体は微細体(プラーナ)になり、その形は智慧の光に(理智:ブッディ)になり、その決心が実現化する。その性質は万所遍在にして不可視なるものの如くである。

(Ch.III.xiv.2)

それが心臓内にあるわがアートマンである。それは米粒よりも、あるいは麦粒よりも、あるいは芥子粒よりも、あるいは黍粒よりも、あるいは黍粒の核よりも微細である。しかし、また心臓内にあるわがアートマンは、大地よりも大であり、虚空(アーカシャ)よりも大であり、天よりも大であり、これらの諸世界よりも大である。

(Ch.III.xiv.3)岩本裕訳

その手足、眼、頭、顔、耳は万所にあり、世界に遍満している。

(Gita,XIII.13)

今回の二節を要約すると

今まで解説しようとしている諸々の性質とは、ブラーフマンそのものとされるとしているのですが、シャンカラ師の解説としては、『チャーンドギャ・ウパニシャッド』を引用しながら、何と自分を同一視するのかで決まってくるとしているのだが

たとえば、マナスという微細体ならばプラーナとなるし、ブッディならばその形は智慧の光となるとしているのは、以下の同書の引用から

…人間というものはその人物の決意によって造られるのである。…

(『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』Ⅲ.14.1-2)

その「決心」が形として現実化することからすると、ブラーフマン(神様)という万所遍在にして不可視なる如くの実在と同一視して合致していくこと、すなわち、ブラーフマンの性質に自分の心の性質を同一化していくことだと、シャンカラ師は私たちに解説しているのだと推論できます!

そして、この「ブラーフマンの性質に自分の心の性質を同一化していくこと」の技術がヨーガとなります。

前回の最後に心を空っぽにするの後に「…」としましたが

その続きとして、単に無心になるということだけでなく(ここでは心の働きを止めるという意味だったのですが)、自らの心を観察し正しく分析し聖典を読み込み、先生がおられるならば先生の心を観察し正しく分析し(理想的には解脱したような先生の心が良いのですが)、聖者や賢者と呼ばれる人たちが書き記したこの『ブラフマ・スートラ』やウパニシャッド聖典群を読み込んで、ここで記されることを仮説として分析し観察し、その上で自分の分析と観察を一致させるという技術がヨーガと言えますし、ウパサナという瞑想となるのは、一般的な科学の手法そのものとなります。

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