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「プラーナはブラーフマンである」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.23)


はじめに

私たちは先生から「プラーナ」については、現代的には「エネルギー」として習いました。

アインシュタイン博士のエネルギーの法則「エネルギー=質量×光速の二乗」を使った喩えとして

質量が減るということはエネルギーが減るということになりますので、一日にご飯を食べて、もしも体重が減っていくのだとするとエネルギーもそれだけ減っていくことになります。

ですので、ダイエットして質量という体重を減らそうと思ったならば、それなりにエネルギーを減らしてやる、つまり、少ないものにするということは、エネルギーを少ない状態に落とす、出してやる、使うということになります。

エネルギーの法則的に説明すると小難しくなりますが、ともかく歩いてエネルギーを使えばお腹が減って体重が減るということになるというのは、光速の二乗というのは変わらなくて、質量とエネルギーとの相関関係にあるだけですのでそのように喩えられるということになります。

この文章を打っていて気がついたことですが、ヨーガ行者の多くはどちらかというとやせ形なのは、プラーナというエネルギーを適度に解放しているのかな?と思いました。

表題9 プラーナ

ウドギータの瞑想について論じる過程で、ウパニシャッドの中で、「プラスターヴァ(サーマの歌の序奏部)の詠唱者よ、もしあなたが私の前でその神格を知らずにそれを唱えれば、あなたの首は落ちるだろう」(Ch.I.x.9)から始まった後、(チャークラーヤナによって)「その神格はどれですか」という問いが生じることに気づく。そして、「彼(ウシャスティ)は、“それはプラーナ(文字通りの生命力)である”と答える。なぜなら、これらすべてのものはプラーナに向かって進み、プラーナに融合し、プラーナから出現するからである。「これはプラスータヴァと密接に結びついた神である」(Ch.I.xi.4-5)このことから生じる疑問とその解決は、以前の様式(pattern)に従って理解されるべきである。
 
(*116)fall:これはウシャスティからチャークラーヤナへの警告です。

疑問:プラーナという言葉は、「愛すべき者よ、心はプラーナにつながれている」(Ch.VI.viii.2)、「プラーナのプラーナ」(Br.IV.iv.18)といったテキストでブラーフマンの意味で使われていることがわかる。しかし、ヴェーダだけでなく世間でも、より馴染み深い用法は、空気(すなわちエネルギー)の一形態である生命力の意味である。したがって、ここでは、この2つのうちどちらを受け入れるのが妥当なのかという疑問が生じる。

(*117)Prana:深い眠りの中で、魂は心を制限する付属物として、プラーナまたはブラーフマンと一体化する。

(*118)Prana: プラーナまたはブラーフマンは生命力に存在と表現を与える。

反論相手:五重の機能を持つ生命力と呼ばれる空気の変化を受け入れるのが適切である。
というのも、プラーナという言葉は、そのことを意味する言葉としてよりよく知られているからです。

反論 : ここでも、ブラーフマンを受け入れるのが適切です。
というのも、ブラーフマンの特徴は前述と同様に証明されているからである。ここでもまた、補足的な補足部分において顕著なすべての要素の参入と出現が神の活動を証している。

反論相手:そうではない。なぜなら、(口の中の)主な生命力の場合でさえも、すべての要素が入り込み、出てくるからであり、「人が深い眠りにつくと、言葉はプラーナに入り、目はプラーナに入り、耳はプラーナに入り、心はプラーナに入る。彼が再び目を覚ますと、それらはプラーナそのもの(*119)から再び現れる」(S.B.X.iii.3.6)で顕著である。感覚と器官の機能が、睡眠中に失われることのない生命機能に統合され、覚醒時にプラーナから出現することは、一般的な経験の事実である。そして、感覚と器官は要素の真髄であるから、テキストの補足部分の傾向が、要素の生命力への出入りを指し示していることは、何ら矛盾することではない。さらに、ウドギータとPratihara(サーマの歌の一部)の神である太陽と食物は、それぞれプラーナの後に言及されている。太陽と食物がブラーフマン性(Brahmanhood)を持っているわけではない。太陽と食物とのこの類似性ゆえに、プラーナもまたブラーフマンではない。

(*119)itself:目などは、元素の産物である対応する器官を表す。

ヴェーダンティン:このような立場から格言家は言う。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章二十三節

23節 まさにその根拠において、プラーナは(ブラーフマンである)。

「ブラーフマンの指標記号が証拠として残っているから」という理由は、以前の格言の下で述べられた。ブラーフマンの指標があるという「まさにその根拠に基づいて」、プラーナという言葉も至高のブラフマンを意味するはずである。プラーナとブラーフマンの特徴との関連は、「万物はプラーナに向かって進み、プラーナに融合し、プラーナから出現する」(Ch.I.xi.5)というテキストで言及されており、プラーナから生じると述べられた万物の起源と消滅についての言及は、プラーナがブラフマンであることを証明している。

反論相手:たとえ主要なプラーナが受け入れられたとしても、入ることと出ることについての言及は矛盾しない、これは睡眠中と覚醒中の経験の問題であると、私たちは言ったのではないか?

これに対して私たち(ヴェーダーンティン)はこう言う。睡眠と覚醒の間、私たちはプラーナへの感覚と器官の入ることと出ることに気づくだけで、すべての要素の出入りには気づかない。一方、「これらのすべてのものは確かにある」等(Ch.I.xi.5)というテキストに見られるように、肉体と感覚とともに、個々の魂が司るすべてのものの入ることと出ることについてここで語られている。たとえこのテキストが万物に言及する要素を意味するとしても、ブラーフマンの特徴は完全に一致していることがわかる。

反論相手:次のテキストには、睡眠中と覚醒中に、感覚とその対象がプラーナの中に入ったり、プラーナから出たりすることが書かれているが、これは事実ではないのか?「眠っている人が何の夢も見ず、このプラーナと一体となるとき、そのプラーナの中に、すべての名前とともに言葉が入る」(Kau.III.3)

ヴェーダンティン:そこでも、プラーナという言葉はブラフマンを意味するのは、ブラーフマンの特徴が現れている(*120)からである。

(*120)evidence:なぜなら、プラーナは個々の魂とは異なるものではなのと同時に万物が融合する場所であることを示しているからである。繰り返しになるが、プラーナは要素の変容と見なされ、要素をそれ自身に融合させることはできない。

また、プラーナがブラフマンではないという議論は、この言葉が食物や太陽と関連して(あるいは近接して)使用されているからであって、根拠がない。というのも、プラーナの明白な意味が、補足的なテキストの傾向からブラーフマンであることが知られている場合、単なる近接性は何の意味もなさないからである。そして、プラーナのより一般的な意味は、五重の機能を持つ生命力であるという主張が展開されたが、それは、空間(*121)という言葉の場合と同じ方法で満たされなければならない。したがって、プラスターヴァの神はブラーフマンであると結論づけられた。

(*121)Space:「プラーナのみ」と言ってプラーナを強調し、プラーナが万物の物質的源であると宣言しているので、プラーナはブラーフマンである。

この格言は、「プラーナのプラーナ」(生命力の生命力)(Br.IV.iv.18)、「愛すべき者よ、心はプラーナにつながれている」(Ch.VI.viii.2)というテキストを暗示していると考える人もいる。これもまた正当化できない。なぜなら、(この2つのテキストでは)言葉の違いと文脈の力を前にして、疑う合理的な余地はないからである。ちょうど「父の父」という用法において、主格(nominative)によって示される祖父が、第六格(ofを伴う)によって示される祖父とは異なることは明らかであるように、「生命力の生命力」においても、言葉の違いから、馴染みのある生命力とは異なる何らかの生命力が言及されていることは明らかである。というのも、まったく同じものが「彼は彼のものだ」と言って、それ自身とは異なるものであることを示すことはできないからである。さらに、(文脈から)理解されるのは、それ自身の文脈で何かが別の言葉で言及される場合、そのように語られるのはそれ自身だけでなければならないということである。例えば、ジョーティストマの犠牲供養の話題の下で「毎年春には、ジョーティスの犠牲を捧げるべきである」と述べられている場合、ジョーティスという言葉はジョーティストマを意味しなければならない。同様に、至高のブラーフマンが議論される文脈では、「愛すべき者よ、心はプラーナにつながれている」と述べられている。このようなことなので、このプラーナが単なる空気の変化を意味することはあり得るのか? したがって、疑念を抱く余地はないので、(この関連で)上記の文章を引き合いに出すことはない。しかし、プラスータヴァの神であるプラーナについては疑念が生じる。そして、関連する疑問とその解決法は上記に示した通りである。

最後に

9.
ウシャスティ「プラストートリよ、もし君がプラスターヴァ(祭式の際にプラストートリが祭式のはじめに歌う讃歌)において讃嘆されるべき神格を知らないで讃嘆すれば、君の頭は墜ちるだろうよ」と。

『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』第一章第十節 岩本裕訳

4.
すると、プラストートリが彼の傍らに近寄ってきて、
「尊師は[さきに]“プラストートリよ、もし君がプラスターヴァにおいて讃嘆されるべき神格を知らないで讃嘆すれば、君の頭は墜ちるだろう”と、わたしに言われた。その神格とは、どの神ですか」と言った。

5.
ウシャスティ「気息(プラーナ)である。この世に存在するこれら一切のものは、気息(プラーナ)を吸い込み、また気息(プラーナ)を吐き出す。気息(プラーナ)はプラスターヴァにおいて讃嘆されるべき神格である。もし君がそれを知らないで讃嘆したならば、わたしが言った通り、君の頭は[立ちどころに]墜ちるであろう」と。

『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』第一章第十一節 岩本裕訳

18節
「息(プラーナ)の息(プラーナ)、眼の眼、耳の耳、意思の意思、それらを悟れし者たちは、原初太古のブラーフマンを知る」

『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』第四篇第四章

2.
「あたかも紐につながれた鳥が、あちこちに飛び立って、他にとまるところが得られず、つながれた場処につかまり休むように、まさにそのように、愛児よ、この意(マナス)はあちらこちらに飛んで、他に拠りどころが得られず、[結局]気息(プラーナ)に縋(すが)りつかまるのである。何故ならば、愛児よ、意(マナス)は気息(プラーナ)につながれているからである」と。

『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』第六章第八節 岩本裕訳

今回の二十三節にて引用されているウパニシャッドで持っている資料を以上にてご参考ください。

「愛すべき者よ、心はプラーナにつながれている」(Ch.VI.viii.2)について、“the mind”としているが、専門的にはマナス(意思)という内的心理器官になるのですが、大まかな意味としてはたぶん「心」でも良いのかも知れません。

前回の表題と節で、空間というアーカーシャ(虚空)がブラーフマンに近しいものならば、エネルギーとしてのプラーナもまたブラーフマンであるとするのが今回の表題と節だと思います!

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