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「聖典にそれなるお方が至福を有するブラーフマンだと言及されているからだ」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.15)


はじめに

今回引用される『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』の第四章の前段階の内容を簡単に述べますと

師であるサトヤカーマ=ジャーパーラと弟子たるウパコーサラ=カーマラーヤナとの対話となりますが、それよりさかのぼって、サトヤカーマ師の師匠であるハーリドゥルマタ=ガウタマ師が弟子に「そなたの顔はブラフマンを知る者のように輝いている。誰がそなたに教えたのか?」と尋ねる

サトヤカーマは「人間以外のものたちが教えてくれました。」と答えるのだが、これは牡牛・火・紅鶴・マグド鳥にブラーフマンについて教えを請うたのだった。

しかし、サトヤカーマは「先生おひとりが、わたくしにこのように話していただきたいのです」と、自らの師匠に教えを請うたが人間以外の教えと何ら変わるところがなかった、とのこと。

そして、ウパコーサラ=カーマラーヤナは、サトヤカーマ=ジャーパーラの許に弟子入りをして十二年間にわたり師匠の家の祭火に奉仕していた。師匠は他の弟子たちを生家に帰らせたが、彼だけは帰さなかった。

師匠の妻が夫へ「この弟子は苦労して、かいがいしく祭火に奉仕しました。祭神たちがあなたより先にこの弟子に教えないように、あなたが教えてやりなさい」と伝えたのですが、師匠は弟子に何も教えないで旅行に出てしまう。

弟子のウパコーサラは、病気となりそのために絶食すると、師匠の妻が「食事をとりなさい、なぜ食事をとらないのか?」と訊くが、弟子は「人間には数多くの種々雑多な欲望があるが、私は現在病気に満たされているので食べなくない」と答えているのを祭火たちが話し合い、苦労してかいがいしくわれわれに奉仕したのだからわれわれが彼に教えてやろうではないか、と。

この流れからの今回の引用となります。

「目の中に内在するブラーフマンについて」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.15)

15節 そして、これは、至福を有するお方が(テキストでは“それなるお方”と)言及されているさらなる理由によるものです。

さらに、この文章でブラーフマンが語られているかどうかについては、ここで言い争うべきでない。というのも、「それなるお方」(Ch.IV.xv.1-4)などのテキストで言及されている事実から、ブラーフマンが意味されていることがわかるからである。なぜなら、ブラーフマンは至福を有しているからである。テキストの冒頭で紹介されている実在、つまり「プラーナはブラーフマン、至福はブラーフマン、空間はブラーフマン」(Ch.IV.x.4) が、ここで (“それなるお方”で) 語られています。というのも、議論されていることを受け入れるのは合理的だからである。その上、これは結論に違いない。というのも、(死後に続く)道についての教えは、「しかし、教師は道(*9)についてあなたに語るだろう」(Ch.IV.xiv.1)で語られることが個人で約束されていたからである。

(*9)course:ウパコーサーラは師であるサトヤカーマ・ジャーバラのもとに12年間滞在した。しかし、師はウパコーサーラにブラーフマンについて教えることなく旅に出た。このことが少年を動揺させた。しかし、ウパコーサーラによって長い間大切に扱われてきた4つの祭火は、それぞれの秘密をウパコーサラに明かし、「プラーナはブラーフマンである」などと言ってウパコーサーラを指導し、師が道を教えてくれるだろうと結論づけた。その後、師は戻って来て、「目に見えるプルシャなるお方」から始めて、彼に道を告げた(以下テキスト参照)。

議論相手:至福を有するブラーフマンが、テキストの冒頭で語られていることを、どうしてまた知っているのですか?

ヴェーダンティン:答えはこうだ。火のこれらの言葉である「プラーナはブラーフマンであり、至福(kam)はブラーフマンであり、空間(kham)はブラーフマンである、 「プラーナはブラーフマンであり、至福(kam)はブラフマンであり、空間(kham)はブラフマンである」(Ch.IV.x.5)を聞いて、ウパコーサーラは「プラーナがブラーフマンであることは知っているが、至福(kam)や空間(kham)は知らない」(同上)と言った。それに対して、(火の)応答はこうだ。「至福(ローンloan)であるものは空間(kham)であり、空間(kham)であるものは至福(kam)である」(同書)。このうち空間(kham)という言葉は、物質的空間の同義語としてよく知られている。もし至福を意味するkamという言葉がkhamを限定する(qualify)ために使われていなければ、空間を名前などの象徴として提示するために、単なる物質的な空間にブラーフマンという言葉が適用されているように見えただろう。同様に、kamという言葉は、物や感覚との接触から生じる欠陥のある(世俗的な)幸福に関してよく使われている。もしkham(空間)によって限定されていなければ、経験的な幸福はブラーフマンであるという考えが集まっただろう。しかし、至福と空間という言葉は、互いに限定し合うことで、至福そのものであるブラーフマンの理解へと私たちを導くのです。

また、もしブラーフマンという2番目の単語が使われていなかったら、つまり、(“kam Brahma kham brahma”の代わりに)"kam kham brahma-bliss space is Brahman"という文章になっていたら、それは単に(khanの)形容詞として使われていただけで、(ブラーフマンの一側面としての)至福が瞑想の対象になることはなかっただろう。その可能性を回避するために、至福と空間の両方の単語は、(至福はブラーフマンであり、空間はブラーフマンである)において、(別々に)ブラフマンという単語の前にある。なぜなら、その意図は、至福の側面が、それによって限定される実在と同様に瞑想の対象となることだからである。このように、テキストの冒頭では、至福を有するブラーフマンが語られている。そして、ガールハパトヤ祭火をはじめとする祭火たちはそれぞれ、まず自分の個人的な栄光について語る。そして、彼らは皆、こう結んでいる。「愛すべき者よ、こうしてあなたには、私たちについての知識と、自己についての知識とが授けられる」(Ch.IV.xiv.1)という言葉で締めくくられ、ブラーフマン(自己)が先に言及されていたことを示唆している。また、「師があなたに道について教えてくれる」(同上)という声明は、道についてのみ教えるという約束であり、それ以外の話題について話すという意図は含まれていない。さらに、「蓮の葉に水がつかないように、このように知っている者には罪がくっつかない」(Ch.IV.xiv.3)という声明は、目に宿るプルシャを知っている者に対して罪が無効であることを述べているが、目に宿るプルシャがブラーフマンであることを示している。このように、ウパニシャッドはまず、目にブラーフマンが宿り、あらゆる祝福の拠り所となるような美徳を備えていることを語る。そして、そのような知識を持つ人間が辿らなければならない、光から始まる道について語るために、ウパニシャッドは「彼は言った、“目に見えるもの、そのお方こそ自己である”」(Ch.IV.xv.1)などと続く。

最後に

今回の第一篇第二章十五節にて引用されている『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。

師匠はこのように語った。「この眼の中にに見られるプルシャは、アートマンである。それは不死で、無畏である。それはブラフマンである。眼に酪油あるいは水を注ぎかけても、睫毛(まつげ)にだけかかる[のは、眼の中にいるプルシャが眼を閉じさせるからである]

それはサンヤッド=ヴァーマと呼ばれる。一切の悦ばしいことがそれに集まるからである。このように知る者に、一切の悦ばしいことが集まるのである。

また、それはヴァーマ=ニーと呼ばれる。一切の悦ばしいことを連れ去るからである。このように知る者は、一切の悦ばしいものを連れ去るのである。

また、それはバーマ=ニー(「光輝を持ち去る者」の意)と呼ばれる。一切の世界において、それは輝くからである。このように知る者は、一切の世界において輝くのである。

(Ch.IV.xv.1-4)岩本裕訳

「生気はブラフマンである。幸福(ka)はブラフマンである。虚空(kha)はブラフマンである」と。...「幸福であるもの、それが虚空である。また、虚空であるもの、それが幸福である」と。...

(Ch.IV.x.4)間違い→(Ch.IV.x.5)岩本裕訳

かれら(祭火たち)が言った。「親愛なる弟子ウパコーサラよ、われわれはわれわれに共通な学識とわれわれ各自の学識とを、そなたに教えた。しかし、これ以上のことは、師匠が話すであろう」...

(Ch.IV.xiv.1)岩本裕訳

...師「彼らはそなたに種々の世界のことを話したのだな。しかし、余もそなたに教えてあげよう。あたかも蓮の葉に水がつかぬように、まさしくこのように知る者に悪業のつくことはないのだ」と。

(Ch.IV.xiv.3)岩本裕訳

師匠はこのように語った。「この眼の中に見られるプルシャは、アートマンである。それは不死で、無畏である。それはブラフマンである。眼に酪油あるいは水を注ぎかけても、睫毛(まつげ)にだけかかる[のは、眼の中にいるプルシャが眼を閉じさせるからである]」

(Ch.IV.xv.1)岩本裕訳

今回の十五節を要約すると

聖典中に「それなるお方」と記されている、歓喜を有するお方について言及されている事実が、さらなる理由となっている。

今回引用された『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』の内容は、日本においての伝統的な技術の伝承にも言えることではないかと思えたりします。師匠の許で修行する弟子が何十年にもわたって掃除だけをして過ごすというのも特段珍しい話しではありません。

しかし、「言及されているさらなる理由によるもの」が聖典中に記されてるという事実だけで納得できるものではないのですが、この後の十六節そして十七節の教説をお待ちください。

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