入不二基義『現実性の問題』「マイナス内包」を巡って
現在執筆中の『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』本論「第6章 左右の問題――この私の左右と時制の同時生成」の「本文中の附記(annotation involved in text)2――「マイナス内包」を巡って」を転載
入不二基義氏の言うマイナス内包的な<次元/場>は、「マイナス符号」の存在とその機能である反転操作という目印によって探究可能になると推測される。この点に関して注目されるのが、先に言及した現代物理学における回転操作を伴う鏡像/鏡映反転とさらにそれを3軸に普遍化した空間反転対称性/パリティ対称性の破れという現象である。この現象は、3次元空間つまり4次元時空内部においては観測不可能な高次元時空――余剰次元というマイナス内包的な<次元/場>――の存在を示唆する。
ポイントは「マイナス符号」の機能が反転という回転操作だという点である。マイナス符号は回転方向を逆にする。つまり逆回転/反転させる。入不二哲学における基本的な図式化である「円環モデル」において、実在性の次元の生成への向きを逆方向へと存在論的に回転/反転させることによって、生成した実在的な時空内部においては観測不可能な「マイナス内包」<次元/場>が遡行的に見いだされる。だがこの「見いだされる」は、すでに3次元空間(4次元時空)内部に存在する私たちに探究をうながす存在論的な<力>の要請でもある。入不二氏の『現実性の問題』における円環モデル自体は、通常の言い方では「時計回り/右回り」の「一方向回転モデル」なので、上記は(本論考の文脈においては<超越論的自由>の要請という形を取った)現実性の力の作動によって、この<私>がその円環モデルの「マイナス内包的な潜在性次元」を掘り起こした/発見したという新たな解釈になっている。つまり、初発の地点において、現実性の力によってこの<私>が――この場合人格としては入不二基義氏が――今ここで「円環モデル」をマイナス内包的な潜在性の次元を含む形で「発見した」という事態を事後的に記述している。それがマイナス方向への回転/反転運動である。既述のように、<超越論的自由>の要請という形を取った現実性の力は、入不二氏の言う「外側の力」と「マイナス内包」への「遡行/想定」の「可能性」でもある。[注38]
入不二基義氏は、dropbox上で公開された論稿『予備校文化(人文系)を「哲学」する』において、「部分の総計としての全体(の完全性/完備性)」と区別される「部分を持たない全体としての一(の全一性)」について語っている。入不二氏の言うこの「全体としての一(の全一性)」は、道元の『正法眼蔵』「現成公案」巻における「うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらを飛ぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず」という「うを/魚」「とり/鳥」の全存在世界の「全体としての一性/全一性」を直ちに想起させる。
また、この「全体としての一(の全一性)」は、その洞察において、『正法眼蔵』「全機」巻の「現成これ生なり、生これ現成なり。その現成のとき、生の全現成にあらずといふことなし。死の全現成にあらずといふことなし。この機関、よく生ならしめ、よく死ならしむ」にも通じている。ここで注目されるのは、道元は、この「全機」巻の結論部において、「現成よりさきの全機現」というマイナス内包的次元を導入していることである。
このマイナス内包的次元は、『正法眼蔵』「全機」巻の結論部において、以下のように導入されている。
「正当現成のときは、現成に全機せらるるによりて、現成よりさきに現成あらざりつると見解するなり。しかあれども、この現成よりさきは、さきの全機現なり。さきの全機現ありといへども、いまの全機現を罣礙せざるなり。このゆゑに、しかのごとくの見解、きほひ現成するなり。」
上記試訳
「まさにそのことが現成するそのときは、現成はその全一性において働くのだから、この現成以前の現成はないと考えられる。だが、この現成以前に、その全一性における現成があったはずである。この先なる全一な働きは、今のこの現成に、何ら差し障るものではない。つまり、かくのごとくの考え方が、相次いで現成するのである。」
「この現成」――つまり今ここでまさに私の世界が現実であるという事態以前に、「その全一性における現成」すなわちそれもまた現実にほかならないマイナス内包的な潜在性の<次元/場>があったはずである。そして当然のことながら、このすべてに先立つ現実性の力の全一な働きは、今のこの現成/現実に、何ら差し障るものではない。それどころかまさにその現実を成り立たせているのである。
以上に続く道元の「かくのごとくの考え方が、相次いで現成する」という驚くべき記述は、「現実性の力によってこの<私>が今ここで「円環モデル」をマイナス内包的な潜在性の次元を含む形で「発見した」という事態を正確に射抜いていると言えるだろう。
最後に、すべてに先立つ現実性の力の全一な働きについて語る澤木興道の言葉を引用する。
「変わりづめの自己、そのときそのときが完全である。これが絵に描いたようなものであればよいけれども、水に映った月である。動きづめで瞬間ぎりしかない真実である。それで取りそこないがちである。その瞬間が一遍ポッキリの我らの人生、絶体絶命、今日ぎりの一遍ポッキリ。その瞬間を取りそこなったら、一生のお終いである(中略)明日まで生きてるかどうか分からぬ。昨日はどこへ行ったか分からぬ。今日本当のことをやる。骨身に応えて足大地を踏まなければならぬ。」(前掲書 9頁)
「魚が「水を全部泳いでしまった」ということはない。また鳥が「もう空を飛んでしまった」ということもない。しかし魚は水の全部を泳ぎ、鳥は空の全部を飛ぶ。めだかでも、鯨でも水の全体を泳いでおる――容積の問題ではなく、質の問題である。われわれは手もと足もと三尺の所で働いておるが、しかも尽天尽地に働いているのである(中略)雀が空を飛ぶのでさえも空の全分を飛ぶのである。これを現成公案 という。きわまりのない空間、きわまりないのない時間を、今ここで生きるのである。」(『禅に聞け 澤木興道老師の言葉』櫛谷宗則編 大法輪閣 2018年新装版 197頁-198頁)
[注38] 本稿の「<超越論的自由>の要請という形を取った現実性の力の作動によって、この<私>がその円環モデルの「マイナス内包的な潜在性次元」を掘り起こした/発見した」における「<超越論的自由>の要請」は、谷口一平氏の論考『「マイナス内包」としての性自認の構成』(『情況』2024Winter 2024年 75頁-90頁)での「そもそも一般に「脳」という特異な物質が要請されなければ、「マイナス内包」の構成はできなくなるのではないか、という重大な可能性」(同 76頁)における「(「脳」という特異な物質の)要請」とリンクする。もちろん「<超越論的自由>の要請」において「マイナス内包的な潜在性次元」を掘り起こす/発見するという様態で作動するのは、「超越論的統覚」(だけ)である。既述のように、<超越論的自由>の要請は、「可能だと応答/要請する」という遡行的な様態を持っていた。谷口氏は上記論考において、「超越論的統覚でもある「脳」だけが、マイナス内包としてジェンダーを超越論的に構成する異能を持つ。――このことは、そもそも「脳」という特異な物質への科学的フェティシズム抜きにしては、一般に「マイナス内包」への遡行は不可能になるのかもしれない、という探究の筋道を照らすものである」(同 87頁-88頁 強調は筆者による)と述べている。なお、時間と空間の同時生成が回転運動ならば、もしその回転運動によってもとの時空――私たちの存在する時空――全体が回転させられるなら、その回転運動の結果、回転させられるもとの時空に対してより高次元の時空が生まれることが予想される。そしてその新たな時空から見ると、回転させられるもとの時空の時間と空間はループしているだろう(もとの時空――私たちの存在する時空――の「現在」「過去」「未来」「左右」の方向は消滅する)。クルト・ゲーデルが一般相対論の解として1949年に発表した「ゲーデル解」は、時空が自転する回転宇宙――私たちの存在する時空全体が回転する場合――を記述するが、このゲーデル解は、全く同一の時空点(時間、空間 ともに全く同一の点)に循環的にループして戻ってくる「時間的閉曲線(Closed timelike curve)」を持っている。アインシュタインは、ゲーデル解に関して、時間的閉曲線の存在が時系列内の特定の事象が時系列の別の事象よりも早いか遅いかの定義を不可能にすることを示唆している。時空が循環的にループするゲーデルの回転宇宙は、より高次元から見た我々の宇宙の一つのモデルだと言えるだろう。この「より高次元から見た」という事態こそ、既述の”初発の地点において、現実性の力によってこの<私>が――この場合の人格としてはクルト・ゲーデルが――今ここで「円環モデル」をマイナス内包的な潜在性の次元を含む形で「発見した」”という事態の事例になっている。