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うつ病について⑧─個人的目標の行き詰まり

こんにちは、木月まことです。

うつ病については結構継続的に考えています。

最近、また考えが進んだので書き記したいと思います。

包括論ではなく断片的記述になります。

ウツって何だろう、って考えます。

それは他人ごとではないテーマだからです。

まぁ、それはいいとして早速本題に

ウツって、これは体験論になってしまうんで、すべてのウツがとは言いませんが、わたしのウツです。

どういう時にウツになるのか?

それは、あるひとつの限りなく挫折に近い状況にあると(自分では)思える目標(恋愛の成就でも、司法試験に受かるでもなんでもいいです)に心理的に固着してしまってる状況と関係あるようです。

その目標は大抵個人的な目標なんです。

9割うまくいかない(見通しの立ってる)目標への固着がウツかもしれません。

会社とか組織はある意味(ある意味でしかありませんが)ラクなところがあります。

会社でやってることの多くはみんなの目標であり(ボスの個人的目標にすぎない場合も稀にあるでしょうけど)かつ、連帯責任であることがことが多いからです。

もちろん会社や組織でも、社長でもないのに、あなたひとりに特定の責が重くのしかかることがあります。

しかし一般的には連帯責任的に処理されます。

ウツになってることを以てして連帯責任的な課題ではないことが強く意識されていることの証かもしれません。

しかし近代市民社会はどちらかというと個人責任的な立身を前提にしています。

これは長所も短所もあり一概にどうこう言えないのですが、現実論としてそうなっているということです。

抱えてしまっている個人を助けるアプローチは盛んだといってよいでしょう。

でも、限界もあるでしょう。

たとえば、個人の目標として、ピアノをやってる人がショパンコンクールを人生の目標にしていたとしましょう。

あのアルゲリッチとかすごい人が通ったピアノの国際コンクールです。

いいところまでいってるんだけど、冷静に考えるとちょっとムリみたいなところにいたとするじゃないですか。

まわりのアシストにも限界がありますよね。

だって、かなりの程度その人次第の事柄じゃないですか。

「諦めが肝心だよ」

「やれるところまでやってみれば」

どう言ってみても、他人事のような無責任なニュアンスは避けられません。

諦めたら人生の主要な生き甲斐の喪失につながるかもしれないし、協力にも限度がありますよね。

「必ずショパンコンクールに通るピアノ塾」の創設はどのような善意を以てしても論理的にありえません。

ちょっとたとえが現実離れしていたかもしれませんが

個人目標はしばし暗礁に乗り上げるのです。

「でもアルゲリッチは通ったのよ、何で、何で?」って感情は言うでしょう。

ショパンコンクールがシステム悪でしょうか?

でも、これがなければ、アルゲリッチの音楽を堪能できる人はいなかったことも考えられます。

やっぱり個人的な夢なんかを持つより組織人として暮らしたほうがいいかな

でも、会社組織も多く、成長経済だった80年代くらいまでより、複雑な問題を抱えてるところも増えています。

成員の状況も多様化しており、たとえばシングルマザーとかも80年代までとくらべて激増してるでしょう。

会社も本来の目標である利潤の追求とは違ったデリケートな課題を複数つきつけられています。

迂闊な一言を口走ったら、迂闊な対応をしてしまったら、社会的に葬り去られる緊張感もあり、古い世代が「お尻を触られるくらいはなんともなかったけどね」などと言えば、若い世代を中心に「お前らのその歪んだ考えが社会悪を助長したんだ、消えろ!」っと食ってかかってきかねない雰囲気です。

古い世代をスタンダードにすると、若い人たちは自殺かテロかみたいになりかねず、若い世代をスタンダードにすると、古い世代は口にガムテープを貼ってすみっちょで大人しくしてるしかありません。

会社もアマゾンとかに突然顧客を奪われると大変です。

いや、はなしがそれましたが

このように考えてくるとウツになりにくいのは、特定の何かに固着しないパーソナリティーでしょう。

しかし、固着ゼロで目標が(恋愛の成就でも、司法試験に合格でも)達成できるのかという疑問もあります。

ほんものの「ないない尽くし」に平然としていられる人は少ないでしょうから、なんの達成もなしに人生がうまくいくことは少ないでしょう。

たとえば、彼女なし彼氏なしとかで、フーゾクやホストクラブ、出会いアプリは利用したくないみたなこだわりがありますと、ある欲求は切実で、それだけで人生少し重たいでしょう。

もちろん彼女や彼氏がいるからこその重い問題を抱えてる人もいるでしょう。

特定の、行き詰っている、または成就の見通しがかなり怪しくなっている特定の個人的な人生目標への固着もウツの一因ではないか

さらには、その目標に対してまわりのファクターより自己責めに比重が置かれているときウツになるのではないでしょうか?

じゃあ、どうすればいいの?

あんまり性急かつどのケースにもまんべんなく応用の利く解決策なんて多分ないと思います。

太陽の光を浴びてセロトニンの分泌を促す

薬の服用。

決定打ではなく補助ファクターでしょう。

第一、梅雨に入りますと太陽が見えません。

好きなことをやる。

う~ん、

本物のウツって、多分好きなことが地上から消え去ると思います。

「分を知ることだよ」

それもひとつの解決かもしれませんが

ないない尽くしが悩みであれば、個人はきっと何かを目指すでしょう。

まぁでも、行き詰ってる特定の個人目標に対する執着もひとつの原因のようです。

ラクになる日がくればいいなとも思いますが(もちろん自死ではないやり方で)

人間って向上心がありますからね。

難しいですね。

ちょっととりとめのない結末になってしまいましたが

ウツのひとつの要因について考えてみました。

特定の個人目標が行き詰って、それへの固着が手放せず、自分を責めているのもひとつの原因ではないかというおはなしでした。


(あとがき)
こんなわたしも、実は最近ウツ気味です。

わたしのウツ解決策のひとつは実は、ウツってどういうメカニズム?って考えることです。

あんまりみなさんの参考にはなりませんよね(スミマセン)

ウツ論考が進むのは大抵自身がウツのときです。

でも、正直、ウツ歓迎というわけでもありません。

ウツって悪いものってイメージがありますからね。

実際気が塞ぎますし。

でも自分なりに理解が進むと少しだけ気が軽くなります。

自分を許せるといいですね。

でも周りの人たちも自分自身もあなたを責めるでしょうから難しいところです。

今日はここで終わります。

御一読ありがとうございました。

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