小説『ポルカ・ドットで、こんにちは』Dot:1
凛子はビスケットをつまみながら、椅子の上で二等辺に折りたたんだ左脚の膝に顎をのせ、ドーナツとポアンカレ予想の関係について、かれこれ半刻ほど考えていた。いや、正確には考えているふりを愉しんでいた。
キリは帰って来ない。たぶん。
こんどのバカンスは、ランゲルハンス島あたりはどうかしら。そう提案したから機嫌をそこねたのね。やれやれ。ジョークとチョークの違いもわからないんだから。凛子はぬるくなったダージリンをひと口啜って、顔をしかめる。
開けた出窓から、ぬるりと春先のなま暖かい風が、断りもなく滑りこみ、アンティークレースのカーテンをいたずら好きのパンシーのように執拗にからかっている。
ヘミングウェイの『海流のなかの島々』の日に焼けたペーパーバックを適当に開き、テーブルに散らばったビスケットのかけらを集め、出窓の窓辺でぱっぱと払った。すると、たちまちロビンが数羽、楡の枝から降りて来て、朱色の頭をせわしなく動かし賑やかな食事会をはじめる。くだらない作法なんてない純粋な食事。
羽がほしい。
リリエンタールは、どうして飛んだのだったか。「翼よあれが巴里の灯だ」と叫んだのは、リリエンタールではなくて、リンドバーグ?だったかしら。どちらにしても、あんな板でできた無粋な翼はいらない。蝶のようにしなやかで、トンボのように透けた羽がほしい。アサギマダラは海を渡ると、キリが言ってた。あわい水色の羽を気流に乗せて蝶が海を渡る。空と海を分かつ境界線から起こる風に乗って。空の色を映した羽で。蝶の羽に色はついていないと、これもキリが言ってた。ルリタテハも、モンシロチョウも、キアゲハも、オオムラサキも。みんな、みんな無色なんですって。光のいたずらが羽に美しい色をまとわす。ああ、わたしも羽さえあれば、海を渡れるかしら。
ここでない、どこかへ。
ときどき、どうしようもない焦燥感が胸をついばむ。
ときどき、じぶんの体を内側から眺めてみたいと思う。皮膚の裏側に数十兆個もひしめく細胞の重なりと連なりをひとつひとつ数え。遺伝子の鎖をほどき、彼らの声を一言もらさず書きとどめる。日記のように。遺言書のように。墓碑銘はエンドロールさながらどこまでも続いて終わりがみえない。アポトーシスが世間の耳目を集めたのはいつだったか。昨日も、今日も、明日も、何千億個という細胞が死と再生を繰り返し、数年もすれば全部入れ替わる、の、だとしたら、
今、ここにいる「私」は誰?
昨日、存在した「私」はどこにいるの?
凛子はモロッコ革の水色のスリッパを素足に引っかけて、サンルームの扉を閉める。
キリを探しに行かなくっちゃ。
(to be continued)
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