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女性詩とひらがなと手書き
高橋順子『意地悪なミューズ』を読む。
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以前読んだ新井豊美『女性詩史再考』で、女言葉の本質はひらがなにあると高橋順子が指摘していると読み、その出典を探ってみた。
『意地悪なミューズ』は、第一部・二部は戦前、戦後それぞれの詩人論、第三部は著者の詩論、そして第四部は女性詩について考察していて、そこに高橋のひらがな論があった。
漢字は、目に見える具体的な物を指している場合を除き、人に緊張を強いる。それに対し、ひらがなは、一個だけとってみたら、ほとんど意味をなさない文字であると指摘したうえで、つぎのように語る。
ひらがなの、ほとんど意味を持たないという特徴を、意味から自由であり、もっぱら音と声を表わし、肉感性をもつ文字であるというふうに見方を変えることによって、ひらがなという文字に力を付与することができるのだ。そして女性詩人はこのあたりの消息にとっくに気づいている。
ひらがなは、どちらかというと、見る言葉ではなくて、聞くことばであるので、身体に近いと思う。見ることの苦痛は目を閉じればよいが、聞くことの苦痛に耳を閉じるわけにはいかないということからも、聞くことは全身的な行為なのだと思う。女性詩人がひらき直って自分の生理をことばにするとき、やっぱりひらがなに乗せるのがいちばんしっくりくるのだろう。
漢字は真名。ひらがなは仮名。真名は男が書くものであったのに対し、仮名は女が書くもの。そしてことばは時とともに人から人へ受け継がれる。自分が使っていることばは、先人が使っていたことばであり、それもさらに先の人々から受け継いだものである。ひらがなに女性の身体性がともなうのも当然であり、真名であれ仮名であれ、われわれはことばという大河の流れに生きている。
男性詩という言葉が存在しない以上、女性詩という言葉も存在しないはず。それでも気になってしまうのが女性詩である。
第四部の女性詩論だけでなく、それ以外の論考にも学ぶところが多い。
戦前の詩人では、米澤順子を初めて知る。昭和6(1931)年、38歳で病没し、遺稿詩集を含めて2冊しか刊行されていないというのだから、知る人ぞ知る詩人なのかもしれない。ひらがなを用いながら、柔らかさよりも洗練さがあり、透きとおった印象がある。
戦後では、石垣りんや茨木のり子、岸田衿子など、身近な詩人を紹介している。
その一つ、小野十三郎についての文章でふと感じた。これは、手書きの原稿だなと。
初出が1987年なので、パソコンどころか、日本語ワードプロセッサー(!)が広くいきわたっていることもなく、雑誌でも手書き原稿で納品するのは、当たり前だと想像できる。しかし、そんなことも考えずに文章を読んでいて、これは手書きの文章だと感じたのだ。
明確な根拠はない。しかし、言葉選びや文から文への呼吸で、手書きのような印象を持った。無意識に、単調に呼吸をしながら書いているものの、ふと息を止めて力を入れたり、長く細く息を吐き出しながら書き連ねたり。そんな息遣いを感じたのだ。それらは、推敲や校正で失われてしまうこともある。ただ、勢いに任せてキーボードに指先を叩きつけるのとは違う文章になるように思う。
第三部の詩論、詩の創作論を読むと、下手でもいいから詩を手書きしてみたくなる。詩作でなくとも、好きな詩を手で書き写してみよう。
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