ロベルト・アンプエロ『ネルーダ事件』
「ネルーダ週間」も終盤にさしかかる。映画を観たり、詩集を読んだりしながら、参考文献を紐解いたり、ニュースを調べたりして、南米チリの詩人、パブロ・ネルーダの全体像がぼんやりと浮かび上がってくる。
批評家の小林秀雄は、文芸時評から出発したものの、絵画や音楽、能などにも批評の対象を広げた。そのとき、伝記を読み、書簡を読み、行き着く興味は作家の「人そのもの」であり、生活となる。作家の坂口安吾との対談でも小林秀雄は語る。
そんなことを思い出しながら、ロベルト・アンプエロ『ネルーダ事件』を読む。2014年春の発売とともに買い求め、今回は再読なのだが、自分でも呆れるくらいに、登場人物もストーリーも記憶から抜け落ちていた。その分、初読のように新鮮な驚きを抱き、「ネルーダ週間」で整理したり増やしたりした知識もともなって、このミステリに夢中になった。
本国チリでは人気シリーズとなっている亡命キューバ人の私立探偵、カジェタノが、チリ軍事クーデターの起こった1973年の冬を回想する。
亡命先の米国で知り合ったチリの裕福な家の出身であるアンへラと結婚して、チリの首都サンティアゴの西にある港町バルバライソに移り住んで2年、カジェタノは仕事もなく妻の実家からの支援で暮らしている。コネ作りにと妻に連れられ顔を出した有力者のパーティーで、偶然にネルーダと知り合う。
自宅に呼び出されたカジェタノは、亡命キューバ人であることを見込まれて、ネルーダに人捜しを依頼される。かつてメキシコ領事をしていたときに知り合った、キューバ出身の医者であるという。ネルーダが不治の病に侵されていることに気付いたカジェタノは、しぶしぶ引き受ける。これを読んで探偵の仕事を学べとネルーダに持たされたのは、ベルギー人だがフランスで人気の作家であるジョルジュ・シムノンによるメグレ警視シリーズの推理小説だというのがおかしい。
ちょうどチリでは、独自の社会主義国家建設を目指したアジェンデ大統領が、米国の支援を受けた反共産主義勢力や、結局はブルジョア社会主義じゃないかと批判を強める極左勢力の板挟みになり、転覆一歩手前という情勢にある。さっそくカジェタノはメキシコに飛び、医師の消息をつかむが、すでに鬼籍に入っていた。ならば医師の妻を捜してくれとネルーダは依頼を重ね、その動機となった過去の秘密をカジェタノに明かす。
カジェタノの捜索は、メキシコ、キューバ、東ドイツ、そしてボリビアにも及ぶ。その都度、チリに戻ってくるので、旅から旅へというわけではないが、ロード・ムービーならぬロード・ノヴェルの趣もある。それと並行して、チリが軍事クーデターに向かう様子が史実どおりに生々しく重ねられる。もはや夫婦関係が破綻した妻との別れや、東ドイツで敵か味方か分からない若い女マルガレッチェンとの探索など、エンターテインメントの要素もふんだんにある。章ごとに挿入される、ネルーダが生涯で愛した女たちについて悔恨に満ちた述懐は、本当にそう考えていたのではないかと信じたいほどの愛欲と苦渋が溢れている。
本書でも描かれている女性遍歴をみれば、ネルーダは決して聖人ではない。詩と愛欲のためなら、あらゆる女も軽く捨てる男性優位主義、いわゆるマチスモの塊だ。現代のフェミニズムの文脈からは完全に消去されてもおかしくない。だが、女を愛してやまない『二十の愛の詩と一つの絶望の歌』や『百篇の愛のソネット』は、没後50年たったいまも潤んだ唇で諳んじられている。
あとがきを読むと著者ロベルト・アンプエロは、街でネルーダを見かけることもあったバルパライソで生まれ育ち、20歳のときに軍事クーデターを目の当たりにして、のちに国を追われている。カジェタノはもちろん、ネルーダが探し求めたキューバ人の医師などはフィクションだが、ネルーダは故郷の偉大な詩人であり、幼い頃からの憧れだ。アジェンデによる社会主義政権の樹立から軍事クーデターによる失脚までも自分の肌で体験している。クーデターを首謀したピノチェトによる長期の独裁政治を、祖国の外から眺めるしかなかった悔しさも、ネルーダが存命していたころへの郷愁につながっている。
小林秀雄が、ゴッホを書きたい、モーツァルトを書きたいと思ったときは、批評というメソッドを使った自画像を描いた。本書の著者ロベルト・アンプエロがネルーダを書きたいと思ったときは、ミステリのメソッドを使って自画像を描いたのだ。こんなにもネルーダが好きだという思いを、彼の場合は詩ではなく、小説に託した。それによって読者は、エンターテインメントとして楽しみながらも、ネルーダはこういう人だったのだろうと信じてしまう。フィクションだと分かっていても、敢えて騙されたい。幸せで豊かな虚構に身を委ねてもいいと思ってしまう。
描写も蘊蓄も独り言も過剰で、私の小説の好みからは遠いはずなのに、メキシコシティの国立人類学博物館の様子や、ハバナのマレコン通りに打ち寄せる波しぶきなどは、私が訪れたのと時代が異なっていても、埋もれた記憶をまざまざと呼び起こした。訪れたことのない東ベルリンの狭い路地や、ラパスにあるカフェの窓から見える先住民の女性が歩く姿なども、まるで自分の記憶のように脳裏に思い描ける。
小説であれ、詩であれ、「記憶」を呼び起こすものがある。パブロ・ネルーダという詩人と、この『ネルーダ事件』というフィクションが、久々に私のラテンアメリカ熱やスペイン語熱をじわじわと呼び覚ましている。
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