「誰が正しいのか」よりも知りたいのは——トーベ・ヤンソン『誠実な詐欺師』、日高敏隆『春の数えかた』
拝啓
夏の忙しい日々が、ようやく終わりました。のびた髪を切り、傷んだ靴を新調し、ゆがんだ生活リズムを整えているところです。重い瞼に抗いながら、読書する時間も取り戻しつつあります。
前便でご紹介した石村博子『ピㇼカ チカッポ 知里幸恵と「アイヌ神謡集」』が、あなたをそんなに動揺させるとは思いもよりませんでした。アイヌに生まれ育った一人の少女がみずかららの本質である神謡を命を賭して紡いだ物語であり、書くといういとなみに、生きる悦びを見出した知里幸恵に学びたかったのです。
補訂新版の『知里幸恵 アイヌ神謡集』もようやく読むことができました。「ピㇼカ チカッポ」は日本語に訳せばたしかに「美しい鳥」なのでしょう。ただ、今回の補訂では「美い鳥」としたのも、丹念な研究の成果のようです。
知里幸恵と金田一京助の関係性について、私はあまり気になりませんでした。滅びゆく言葉を研究するために神謡を「採集」する金田一は、幸恵の才能を都合よく利用したにすぎず、現在そして未来のアイヌ語やアイヌ民族を慮ることはなかったという批判は根強いものがあります。妻子持ちの中年男性が純粋無垢な10代の女性を手元に引き寄せることの倫理観も問われてきました。
そこで、あなたが教えてくれた日高敏隆『春の数えかた』の、「人里」における「共生」の考え方は、まさにわが家がホタルの里に面していることからも、身にしみてわかる説明でした。
人間は食物の生産のために林を切り開き田畑をつくる。その周辺は、生えるべき草が生え、棲むべき虫が棲む。伸びすぎた草は人間が刈ったとしても、また草は生えてくる。人間は田畑で食物が得られるならば、そんな自然のいとなみに意図的に加担したり、抑圧することはない。人間を含めた多様な「生きもの」が、思い思いに生きていく。それが「共生」だというのです。
さらに、あなたが示してくれたフォレスト・カーター『ジェロニモ』とナンシー・ウッド『今日は死ぬのにもってこいの日』も読みました。残念ながら、19世紀から20世紀にかけて北米の白人は、アパッチをはじめとする先住民と「共生」するという発想は皆無です。「管理」でもない。『ジェロニモ』でも言及されているように、当時、先住民は「人間」ですらなかったのです。ルシアとマスラという捕らわれた2人の少女をジェロニモらがヌーリの町へ奪還しにいく「奇襲」という章は、痛快というよりも、あまりにむごくて、ページをなかなかめくれませんでした。
利己と利己のせめぎ合いのうえに「共生」がある。たしかに動物行動学者である日高先生がおっしゃるように、人間、動物、植物では目指せるかもしれない。でも、北米の白人と先住民では在りえなかった、人と人の間に調和のとれた「共生」は成り立つのだろうか。そこで思い浮かんだのが、「ムーミン」の作者でもあるトーベ・ヤンソンの小説『誠実な詐欺師』です。
北欧を思わせる海辺の村。雪で閉ざされた冬、明晰で数字に強いものの、相手の心情を察しようとしない若い娘カトリの願いは、海やボートのことしか頭になく、ちょっとぼんやりしている10歳下の弟マッツに、彼自身が設計したボートをプレゼントすること。そこでカトリは、村に住む絵本の画家で、芸術的な才能はあふれているものの、金銭感覚に乏しいアンナに近づきます。アンナの財産を管理することで、彼女が受け取るはずだった作品の使用料や、疑いもなく請われるがままに支払っていた経費などを正しく計算し、本来の収益を確保することで、そこから報酬を得ようと考えたのです。うまくアンナの秘書となり、マッツとともに彼女の屋敷に移り住んだカトリ。当初は穏やかだったお互いの結びつきが、すこしずつほつれてゆきます。
ひとつ屋根の下、カトリ、マッツ、アンナの3人とも、それぞれ自分の論理をふり回します。ボートの資金をつくるために、人を不快にさせたとしても、正論を突き刺し続けるカトリ。自分の好きなことだけやって日々を送っているものの、つまりは姉に依存して生きているマッツ。親の遺産で何不自由なく暮らせるからこそ他人にたかられているのに気づかず、いざ真実を知ると、自分を欺いていた人々に疑心暗鬼になるアンナ。それぞれが利己的で、身勝手。そうやって、自分の正しさを振りかざしながら、3人は結末に向かってバラバラになっていく。
では、誰が正しいのでしょうか?
人は、自分が抱く意見はいつも正しいと思っているもの。そして、他人と意見が異なると、自分は正しい、相手は間違っていると考えてしまう。カトリも、マッツも、アンナも、それぞれ自分は正しいと思っています。でも、その正しさの「枠」に相手の意見がおさまらなくなったとき、相手を責めたり、諍いが始まったりするのです。
私は、誰が正しいのかには、関心がありません。自分の正しさにも、それほど重みを置いていません。「誰が正しいのか」よりも、「何が正しいのか」を知りたい。それが、本書にも繰り返し登場する、「本質」だと思うのです。
カトリは2度、自分の「正しさ」を疑う場面があります。そして前言を撤回し、まったく反対の考えを相手に伝えます。どちらの判断が正しかったのかは分かりません。しかし、自分の「正しさ」よりも、「何が正しいのか」を考えたゆえの行動ではないか。
知里幸恵と金田一京助の関係性はどうでしょうか。たしかに金田一は幸恵を「利用」していたのかもしれない。しかし、幸恵は金田一の手を借りてでも、アイヌの「魂」にもひとしい神謡を後世に伝え残したかった。そんな2人の利己と利己のせめぎ合いのうえに、「共生」の本質として、『アイヌ神謡集』が著された。だから初版から100年の後にも、わたしたちがこうして『神謡集』を手に取ることができるのです。
利己的に生きるために、相手を欺くこともあるかもしれない。ただ、それで自分も相手も「本質」に近づくことができる。それを「誠実な詐欺」と呼ぶならば、誰が正しいのか、正しくないのかよりも、「何が正しいのか」を考える方が尊いのではないか。そんなことを、知里幸恵の没後101年目の処暑に、北欧の冬を思い浮かべながら、考えました。
昨夏、今夏と、あなたは大きな動きがあったようですね。ずいぶん癒えた様子をうかがい、嬉しさと安堵が入り混じります。「飯田線阿房列車」も先を超されてしまいました。私は9月23日に豊橋からの下り列車に乗り、その日は岡谷で泊まるつもりです。通過するだけですが、カネトが命がけで挑んだ天竜峡が楽しみです。
敬具
既視の海
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